新樹の通信  「霊界通信集」A


 浅野和三郎『新樹の通信』の現代文訳を載せるにあたって


 浅野和三郎先生(1874-1937)は、英文学者として、アーヴィングの『スケッチブック』、ディケンズの『クリスマスカロル』等の翻訳をはじめ、多くの著作を残されて著名ですが、それだけではなく、それ以上に、大正から昭和の初期にかけて、日本の心霊研究の草分け的存在として、大きな足跡を残されました。

 東京帝国大学英文学科を卒業後、海軍機関学校の英語教授をしていましたが、三男三郎氏の原因不明の熱病を契機にして心霊研究に傾倒するようになりました。その後、海軍機関学校を辞職して「心霊科学研究会」を創設し、1928年には、ロンドンで開かれた第三回国際スピリチュアリスト会議にに出席して、「近代日本における神霊主義」の演題で英語で講演したりしています。

 この『新樹の通信』は、若くして急逝した次男・新樹氏から父へ、霊能者の母・多慶子女史により伝えられた珠玉の霊界通信で、昭和の初期に心霊科学研究会から出版されました。その復刻版は、現在も、潮文社から刊行されています。ただ、原文は80年前の古い文体でやや読みにくいと思われますので、この際私が現代文に訳してみることにしました。これから随時、その要点を、このホームページに載せていく予定です。

 この現代文訳の末尾には、原文である復刻版の該当ページと、他の現代文訳の「引用」ではないことを明らかにするために、あえて現代文訳者として私の名前もつけておきます。一人でも多くの方に、この貴重な霊界通信を読んでいただきたいというのが、私の願いであり現代文訳の趣旨であることを、ご理解いただければ有難く存じます。(2013.07.01)


追伸
 7月19日の「現代文訳者私感」のなかで触れておきましたように、この『新樹の通信』は、やはり全文を現代文訳するべきだと思うようになりました。霊界通信の内容がすべて極めて重大かつ貴重で、要点だけを部分的に取り上げるというのでは、あまりにも惜しいような気がするのです。
 そこで、「(三)通信の初期」を「1」としていたものを「5」にして、その前に、4つを挿入して、近日中に次のように並べ替えます。どうぞ、ご了承ください。  (2013.07.24)

 1. 『新樹の通信』 第一篇 序
 2.  新樹の生涯
 3. (一)通信の開始
 4. (二)果たして本人か?
 5. (三)通信の初期
 6. (四)幽界人の姿 その他 
(その1)
 7.  (四)幽界人の姿 その他 
(その2)


         ***************


 1.新樹の通信』第一篇 序

 本編は新樹が彼の母を通じて送りつつある初期の通信の集成であります。そのなかで最も早いのは、彼の死後わずかに百日あまりが過ぎた昭和4年7月頃のもの、その最も遅いのも昭和5年2月頃、つまり彼の一周忌前後のものであります。それ以来今日までに現われたのも少なくありませんが、それらは漸次、機会をみて発表していくことにしましょう。
 私どもが新樹の通信を発表するについては、これに対して世間では、必ずしも賛同するものばかりでないことは十分に承知していますが、私どもとしては、しばらくは一切の毀誉褒貶に眼をつぶり、とにかく私どもに現われたこの活きた心霊事実をありのままに世間に発表して識者のご考慮に供することで満足していますので、もしもこれが導火線となって、少しでも日本国民の間に心霊への関心を促すことにもなれば、それこそ私どもにとっては望外の歓びなのであります。
 いよいよ本編の編集が終わった8月16日に、私は新樹を呼びだして、「お前もひとつそちらの世界からこの本の序文を書いて送れ」と命じました。新樹はこれを快諾し、二日後の8月18日に、彼の母の口を借りて送信してきたのが左記の挨拶であります。恐らくこの方が本書の本当の序文というべきものでしょう。

 (新樹の挨拶)
 このたび父から、僕がこれまでに送った通信の一部を一冊の書物にとりまとめて上梓するから、お前も何かひとつ序文を書くようにとのことで、未熟の僕には特にこれというよい考えも浮びませんが、ほんの申し訳に、少し所感を述べさせていただくことにいたします。
 僕が送った初期の通信をご覧の方は、ことによると僕を女々しい、愚痴っぽい男とお考えになるかもしれませんが、実際はそうでもないのです。僕はどちらかといえば、生来むしろ陽気な性格で、若者に許される正常な快楽の殆んどすべてを手当たり次第に探し求めていました。従って僕は、生前はただの一度も「死」の問題などは考えたことがありません。あんな陰気な恐ろしいものは、僕とはまったく関係のない、少なくとも遠い遠い未来の、夢か幻のようなもののように考えていたのです。
 そのような僕が、いつのまにか「死」の関門を通過してしまったのですから、まことに皮肉極まる話で、叔父から死を宣告されて初めてそれと気がついた時には、僕がいかに愕き、悲しみ、また口惜しがったかは、どうぞお察しください。その頃の僕の通信が、涙混じり、愚痴混じりのたいへんお恥ずかしいものであったのも、同情深い方々は多少は大目に見てくださるのではないかと思っています。
 しかしながら、現世の側から前途に死を望み見るのと、こちらの世界から振り返ってそれを回顧するのとでは、大分勝手が違います。何といってももう仕方がないのですから、僕のような者にも次第にあきらめがついてきまして、現世では使い得なかった精力の全部をひとつみっちり幽明交通の仕事に振り向け、父の手伝いをしてやろうという心願を起こしました。それが現在の僕にとって、活きて行くべき殆んど唯一の途なのです。もちろん僕の修行が足りないために、これぞという通信はまだとても送ることはできません。父から次々に出される問題の多くは、僕の力量に余るものばかりなので、そんな場合には、一心不乱に神に伺い、また守護霊に聞いたりして、どうにか大過なきを期しているような次第で、従って僕の通信といっても、内容は僕が中継者の役目をつとめているだけの霊界通信なのであります。ともかくも、こうした仕事に精根を打ちこんでいるお蔭で、近頃はこちらの世界の事情も少しずつわかりかけ、幽界生活もまんざらでなく考えられるようになってきました。
 僕の現在の不満はまだ現界が少しも見えないことで、時々はそれがじれったく感じられます。しかし神さまに伺ってみると、それは僕の地上生活に対する執着がまだすっかり除き切れていないためだそうで、この間なども、神さまから「お前はまだ後ろを振り向いてはならないぞ!こちらでお前の為すべきことは多い。すべての準備ができれば現界も自然と見えてくる………。少しも急ぐには及ばない」とお叱りをうけました。そこで僕も考えたのです。「なるほどそうだ。焦るのはよくないのだろう。これから先が際限なく永い生活なのだから、あまり焦らずに、いま与えられている仕事に対して最善をつくすことにしよう……。」
 だいたい僕はこんな状態で、かなり楽な気持ちで幽界に生きております。死後の生活――このことが僕の通信で幾分でも皆さまにおわかりになれば、皆さまの死に対する不安も薄らぎ、同時に皆さまの心の視野も限りなく拡大していくでしょう。これからの僕はなお一層の修行を積んで、より充実した通信を送り、皆さまの期待に背かぬように努力する覚悟であります。
 今回はこれで・・・・・・。

   昭和6年8月18日                   編者 誌す

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.1-5 (現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 この和三郎先生の「序文」は、よくわかります。このような本に「必ずしも賛同するものばかりでない」世間の風潮のなかで、あえて出版を決意された先生のお気持ちも、よくわかります。本の体裁としては、一般的に本にはみんなこのような序文があって、その点では別に珍しくはないかもしれません。しかし驚嘆させられるのは、和三郎先生がこの本の序文を、あの世に居る新樹氏にも書かせていることです。新樹氏がお父上の指示を「快諾して」このように貴重な序文を書き送ってきたことです。これは、現代の奇跡というほかはないでしょう。

 霊界からは、この世の私たちのことは「丸見え」であるということは、私も理解していました。しかし、それも、現世に対する執着がなくなり、霊界での「準備が整うまで」はこの世は見えてこないことを新樹氏は教えてくれています。「これからの僕はなお一層の修行を積んで、より充実した通信を送り、皆さまの期待に背かぬように努力する覚悟であります」という新樹氏のことばには、多大の恩恵を受けている読者の一人としても、こころからの感謝を申し上げずにはおられません。
(2013.07.24)




  2.新樹の生涯

 
新樹は日露戦争が起こった明冶37年6月10日に、私たち夫婦の間の二男として横須賀軍港で生まれました。彼は稀にみる白哲肥大の小児で、ずっと健康に育ち、少し大きくなってからは、なかなかの腕白小僧となりました。彼が五、六歳の頃、新調のナイフの切味を試すつもりで、新しい箪笥の角を削り取ったことは家族の笑話として、後々まで語り伝えられました。
 小学教育は横須賀市の豊島小学校で受けましたが、いつも首席で、どの学課も殆ど満遍なく出来ましたが、特に目立っていたのは絵画で、ちょっと器用な画才をみせました。
 その頃私は血気盛りで、土曜から日曜にかけてはよく遠足にでかけ、また夏には欠かさず水泳を試みましたが、新樹はよくその相伴をつとめました。三浦三崎、逗子、葉山、鎌倉、金沢等の諸地方で、私たちの行かなかったところは殆どないといってよいくらいです。また海では、新樹は私の腰に紐でくくりつけた浮き子につかまって、しばしば猿島の近くまで遠泳をしました。
 新樹の中学教育は全部、福知山中学で受けましたが、ここでも成績は優等で、ずっと特待生を続けました。在学中、家から通学したのはほんの最初数か月間だけで、その他は最後まで寄宿舎に入っていました。そして、卒業とともに長崎の高商に入学し、良い成績で同校三年の課程を終えました。その時は数え年で22歳になっていました。
 この間に彼の身長はだんだん延びて、5尺を越え、5寸、6寸、7寸となっていきました。同時にその趣味や傾向も次第に固まっていったようです。私や妻にとってむしろ意外であったのは、彼の幼時の腕白性がだんだん薄らぎ、むしろ社交的要素といったようなものが多く加わってきたことで、彼の趣味も、音楽、絵画等が第一に数えられました。ハーモニカではたしか、長崎高商音楽部の部員だったはずです。それに、彼の性情はどこまでも円満で、活発な運動競技、たとえばボート、ベースボール、スケート、テニス、山登り等にもかなり力をいれていたようです。
 大正14年に学校を卒業した彼は、すぐに古河電気工業株式会社に入り、東京の本社に勤務することになりました。ちょうどその頃、私たち家族も鶴見に移り住むことになったので、まもなく彼は鶴見に来て住むようになり、大連支店に転勤を命じられるまで、久しぶりに約一年間、父母弟妹と家庭団欒の楽しみを味わいました。若くして死んだ彼にとっては、これがせめてもの、この世の生活の楽しい思い出の種であったと思われます。
 彼は昭和2年2月の末に大連に赴任し、それ以来、支店長や同僚にもたいへん好かれて、熱心に社務に精励していました。その翌年の昭和3年7月、私は渡欧の途中大連に立寄り、7月14日から18日までの5日間、もっぱら彼を案内役にして、見物に、訪問に、また座談や講演に多忙な時日を過ごしましたが、特に17日の旅順見物、二〇三高地への登頂、夜に入って老虎灘の千勝館に戻ってきての水入らずの会食の状況などは、今も私の心の奥にはっきりと刻まれております。
 当時の新樹には、まったく不健康な様子はありませんでした。ただ、14日に私がバイカル丸から下船して、一年半ぶりに埠頭でわが子に逢った時の第一印象は、彼がいつのまにかずっと大人びていたということでした。それから私は、無事に欧米の心霊研究の旅を終え、同年の暮れに鶴見に戻ってきて、正月をすませ、少し寛ぎかけていた2月の27日に、突然、新樹が黄疸にかかり、満鉄病院に入院したという電報を受け取りました。三度ほど電報で連絡しあっているうちに、その翌日の2月28日の夕刻には、もう彼の死を伝える電報が届いたのです。その時は、どうすることも出来ずに、殆んど何も考える余裕さえありませんでした。
 新樹の遺した日記帳を開いてみても、彼が病気に対し、また死に対して、全く不用意であった様子がよくうかがわれます。2月12日のところに、「昨日から風邪気味で今朝は11時に出社する。夜は読書」とあるのが、彼の健康異状を物語る唯一の手がかりです。もっとも日記が2月1日で終わり、それからはすべて空白になっているところをみると、その頃はペンを執るのもかなり大儀であったのでしょう。それでいて同月17日、つまり彼が死ぬたった11日前というのに、彼は同僚の2、3人と星ヶ浦に遊び、その際に同所で撮った写真には、例の如く両手をズボンのポケットに突込んで、大口を開いてカラカラと笑いこけています。
 聞けば、26日の朝まで殆ど何の異状もなかった病状が、その日の昼頃、急に進んで脳を冒し、それっきり十分に意識を回復しなかったのだということです。満鉄病院でもやはり昏睡状態が続き、そのまま死の彼岸へ旅立ったということで、正気で死に直面する苦痛を免れたことは、本人にとっていくらかは幸せであったかもしれません。とにかく、あまりにもあっけない死に方でした。
 私の手で持ち帰った彼の遺骨は、鶴見の総持寺の境内に埋められ、一片の墓標がその所在を示しています。しかし、そんなものは殆んど無意味に近い物質的紀念物に過ぎないでしょう。彼の現世に遺すべき真正の記念物が、彼岸の彼が心を込めて送りつつある、この続きものの通信であることは申すまでもありません。

       昭和6年8月20日                  編者誌す

               浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
                 潮文社、2010年、pp.6-8 (現代文訳 武本昌三)



  現代文訳者私感

 
学校では常に成績優秀であった新樹氏が、長崎高等商業学校(現在の長崎大学)の卒業生であったことには感慨を覚えます。戦前の日本では、長崎高商は官立の高等商業学校としてして著名で、東京高商(現一橋大学)、神戸高商(現神戸大学)、小樽高商(現小樽商科大学)などと肩を並べていました。私は小樽商科大学で長年教鞭をとっていましたから、長崎高商の名はよく知っていましたし、おそらく、新樹氏も、小樽高商の名はよくご存知であったと思われます。

 スポーツ好きで明るく、誰からも好かれていた新樹氏が、その年(昭和4年)の2月26日の朝まで殆どなんの異常もなかったのに、その日の昼頃から急に病状が悪化して、満鉄病院でこん睡状態のまま、2月28日にはもう亡くなられたというのは、あまりにも急で、読み返していてもこころが痛みます。私が妻や子を一度に失った時にも、あまりにも大きなショックで、和三郎先生のように、殆んど何も考える余裕はありませんでした。

 和三郎先生が、新樹氏の遺骨を鶴見の総持寺の墓地に埋葬された際には、先生がご自分で墓標の文字を書かれたと、昨年墓参させていただいた折にご家族からお伺いしました。先生は、新樹氏の現世に遺すべき真正の記念物は、この霊界通信であると書いておられますが、私は先生のお気持ちを受け継いで、この新樹氏の通信を一人でも多くの方々に読んでいただけるように、こころを込めて、現代文訳に努めていきたいと思っています。    
(2013.08.02)




  3. (一) 通信の開始

 新樹が満鉄病院で亡くなったのは、昭和4年2月28日午後6時すぎでした。私はその訃報に接するとすぐに旅支度をして、翌日の3月1日の朝、特急で大連に向かい、同4日大連に到着、5日告別式火葬、6日骨上げと、このような場合に行なわれる通常の行事を、半ば夢見心地で忙しく辿っていました。そして、3月12日の夕暮れには、彼の遺骨を携えてさびしく鶴見の自宅に帰り着きました。
 私にとって甚だ意外だったのは新樹の霊魂が、早くもその一日前(3月11日)に中西霊媒を通じて、不充分ながらもすでに通信を始めていたことでした。
 はじめは霊媒にかかってきた新樹は、自分の死の自覚をもっていなかったそうで、あたかも満鉄病院の病室にいるかのように、夢中で頭部や腹部の苦痛を訴えていたといいます。その時、立会人の一人であった彼の叔父(正恭中将)は、例の軍人気質で、短刀直入的に彼がすでに肉体を棄てた霊魂にすぎないことをきっぱり言い渡し、一時も早く彼の自覚と奮起を求めたそうです。新樹は、

 「えっ!僕、もう死・・・・・死んだ……僕‥…残……念……だ………。」
 そう絶叫しながら、その場に泣き崩れたといいます。

 新樹の霊魂は、その後数回、中西霊媒を通じて現われ、また一度ちょっと、粕川女史にも感應したことがありました。それらによって彼の希望は次第に明らかになりました。それを要約すると、つぎのようになります。――

 (1)約百か日を過ぎたら、母の体に憑って通信を開始したい。
 (2)若くして死んだ埋合わせに、せめて幽界の状況を報告し、父の仕事を助けたい。

 私も妻も、百か日が過ぎるのを待ち構えてその準備を急ぎましたが、大体においてそれは予定していた通りに事実となって現われました。私の妻は、十数年前から霊視能力を発揮していましたが、この度の新樹の死を一転機として霊言能力をも併せて発揮するようになり、不完全ながら、愛児の通信機関としての心苦しい任務を引き受けることになりました。
 最初の頃は.新樹自身もまだ充分に心の落ち着きができておらず、また彼の母も感傷的気分になりがちでしたので、ともすると通信が乱れがちでしたが、月日の経つうちに次第にまとまりのよい形になっていきました。
 8月12日に第20回目の通信を送ってきた時などは、彼は自分が死んだ当時のことを追憶して、多少しんみりとした感想を述べるだけのこころの余裕ができていました。――

 「僕、叔父さんから、新、お前はもう死んでしまったのだ、と言い聞かされた時には、口惜しいやら、悲しいやら、本当にたまらない気がしました。お母さんから、あんなに苦労して育てていただいたのに、それがつまらなく一会社のただの平社員で死んでしまう・・・・・。僕はそれが残念で残念でたまらなかった。しかし僕は、次ぎの瞬間にこう決心しました。現世ではろくな仕事ができなかった代りに、せめて幽界からしっかりした通信を送ってお父さんを助けよう。それが僕としては何よりも損失を取り戻すことにもなり、一番意義のある仕事であろう。それには是非お母さんの体を借りなければならない。僕は最初から、ほかの人ではいやだと思っていた・・・・・。」

 簡単にいえば、新樹の通信はこんな順序で開始され、それが現在に及んでいるのであります。この通信がいつまで続くかは、神ならぬ身では予想することもできませんが、おそらく私と妻がこの世に生きている間は、全く途切れてしまうことはないでしょう。なぜなら、私にとっては心霊事実の調査はほとんど私の命そのものであり、また妻にとっては、あの世の愛児の消息は何物にも代え難い心の糧であるからです・・・・・・。
 新樹との通信中、霊媒である妻の霊眼には、ありありとあの世の愛児の起居動作やそのまわりの環境が映ります。また通信中の彼女の言語や態度は、ある程度、新樹の生前の面影を彷彿としてよみがえらせてくれます。こういうことは当事者にのみわかることで、ことばでは言い表すことができません。ここでお伝えできないことをどうぞご了承ください。

      浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
         潮文社、2010年、pp.1-3 (現代文訳 武本昌三)



 現代文訳者私感

 満鉄病院で急死した新樹氏の遺骨を抱いて「さびしく」鶴見の自宅に帰ってこられた浅野和三郎先生の、その時の胸中は察するに余りあります。死を自覚するとかしないとかの話はよく聞きますが、幽界からの新樹氏の最初の悲痛な叫びも、察するに余りあります。さぞ、残念であったことでしょう。

 しかし、それにもかかわらず、新樹氏が「せめて幽界からしっかりした通信を送ってお父さんを助けよう」との決意を述べられていることには、敬意と感謝の念を抑えることができません。お蔭様で、私のような者を含めて、多くの読者が多大の恩恵を受け、こころを慰められてきました。和三郎先生の「私にとっては心霊事実の調査はほとんど私の命そのもの」というおことばも、これを読む者の胸の奥深くに染みとおっていきます。
(2013.08.09)




   4.  (二)果して本人か?

 さて、これから新樹の通信を発表することになりますが、この仕事についてすべての責任がある私としては、通信者が果して本人に相違ないかどうかをまず最初に読者にお伝えするのが順序であると考えます。この点に関して充分の考慮が払われていなければ、結局は新樹の通信といってもそれは名ばかりのもので、心霊事実としては、まったくとるに足らないものになってしまいます。非才とはいえ私も心霊研究者の末席に連なる者として、この点については常に、できる限りの注意を払っているのであります。
 すでに述べたとおり、真っ先に新樹の霊を呼び出したのは彼の叔父で、そしてこの目的に使われたのは中西霊媒でした。私は多大の興味を以て、この実験に対する常事者の感想を聞いてみました。するとその答えはこうでした。――

 「あれなら先ず申し分がないと思う。本人のことば、態度、気分等の約六割ぐらいは彷彿として現われていた。自分は前後ただ二回しか呼び出していないが、もしも今後、五度、十度と回数を重ねていったら、きっと本人の個性がもっとはっきり現われてくるに違いないと思う・・・・・・。」

 比較的公平な立場にある、そして霊媒現象に対して相当な懐疑的態度をもっている人物のことばとして、これはある程度、敬意を払うべき価値はあると思われます。
 私自身が審判者となって、中西女史を通じて初めて新樹を呼び出したのは、それから約一か月経った4月の9日でした。その時は幽明を隔てて最初の挨拶を交わしただけで、特にお伝えできるような内容はありませんでしたが、ただ全体からみて、なるほど生前の新樹そっくりだという感じを私に与えたのは事実でした。
 しかし、研究者の立場からみれば、それは確証的なものではありませんでした。私は焦りました。「なんとかして確実な証拠を早くみつけたいものだ。それにはただ一人の霊媒にかけるだけではいけない。少なくとも二、三人の霊媒にかけて対照的に真偽を確かめるよりほかに道はない・・・・・・。」
 そうするうちに新樹は一度粕川女史にかかり、続いて7月の中旬から彼の母にかかって、間断なく通信を送ってくるようになりました。「これで道具立てはようやく揃いはじめた。そのうち何とかなるだろう・・・・・」――そう考えて私はしきりに機会を待ちました。
 月が8月に入って、ようやくその狙っていた機会がやってきました。同月10日午前のことですが、新樹は母の体にかかり、約一時間にわたって、死後の体験談を伝えてきました。それが終わりに近づいた時、私はふと思いついて、彼に向かって一つの宿題を出したのです。――

 「幽界にも伊勢神宮は必ず存在するはずだ。次回にはひとつ伊勢神宮を参拝してその感想を報告してもらいたいのだが………。」
 「承知しました、できたらやってみましょう・・・・・・。」

 するとその翌日、中西女史が上京してきました。私はこの絶好の機会を捉え、すぐに新樹の霊魂を同女史の体に呼んで、前日に彼の母を通じて出しておいた宿題の回答を求めました。「昨日鶴見で一つ宿題を出しておいたはずだが………。」
 そう言うと新樹はすぐに中西霊媒の口を使って答えました。――

 「ああ、あの伊勢神宮参拝ですか………。僕は早速参拝してきましたよ。僕は生前に一度も伊勢神宮参拝をしたことがありませんでしたから、地上の伊勢神宮と幽界の伊勢神宮とを比較してお話しすることはできませんが、どうもこちらの様子は大分勝手が違うように思いますね。絵で見ると地上の伊勢神宮にはいろいろな建物があるようですが、こちらの伊勢神宮は、森々とした大木の茂みのなかに、ごく質素な白木のお宮がただ一つ建っているだけでした………。」

 彼はこれに附け加えてその際の詳しい話をしてくれました。こまかい話は他の機会に紹介することにしますが、ここで見過ごしてならないのは、彼の母を通じて出された宿題に対して、彼がその翌日中西霊媒を通じて解答を示したことでした。
 「先ずこれで一つの有力な手懸りが掴めた」と私は喜びました。「思想伝達説を持ち出して強いて難癖をつければつけられないこともないが、それは死後個性の存続説を否定しようとつとめる学者たちの頭脳からひねり出された一つの仮定説にすぎない。私は難癖をつけるための難癖屋にはならないようにしよう。多くの識者の中には、おそらく私の態度に賛同される方もおられるであろう………。」
 翌日12日の午前、私は鶴見の自宅で、今度は妻を通じて新樹を呼び出しました。

 「昨日中西さんに懸ってきたのはお前に間違いないか?」
 「僕です……。あの人は大変かかり易い霊媒ですね、こちらの考えが非常に速く通じますね。」
 「もう一度お前のお母さんの体を使って、伊勢神宮参拝の話をしてくれないか、少しは模様が違うかもしれない。」
 「それは少しは違いますよ。こうした仕事には霊媒の個性の匂いといったようなものが多少は付け加えられ、そのために自然に自分の考えとぴったり合わないようなところも出てきます。お母さんの体はまだあまり使い易くはありませんが、やはりこの方が僕の考えとしっくり合っているようです。もっとも、僕の考えていることで細かいところは、途中でよく立ち消えになりますがね……。」

 こんなことを言いながら彼は伊勢神宮参拝の話を繰り返したのですが、彼の母を通じての参拝の話と中西霊媒と通じての参拝の話との間には、長さや細かさの差があるだけで、その内容はまったく同じでした。
 彼が一度粕川女史に懸ろうとしたことも事実のようでした。8月4日午前、彼は母の体を通じて、問わず語りにつぎのようなことを話しました。――

 「僕は一度あのご婦人……粕川さんという方に懸ろうとしました。折角お父さんがそう言われるものですから……。けれどもあの方の守護霊が体を貸すことを嫌がっているので、僕は使いにくくて仕方がなかった………。僕、たった一度しかあの人にはかかりませんでした………。」

 新樹と交信を始めた当初は、手懸りになったのは先ずこんな程度のものでしたが、幸いにもその後、東茂世女史の霊媒能力が次第に発達するにつれて、確実な証拠や材料がつぎつぎに積み重ねられていきましたので、現在においては、果して本人に相違ないかどうかといったような疑念を挟む余地はもはや全くなくなりました。
 東女史の愛児・相凞さんと新樹は、近頃あちらで大変親しく交遊しており、一方に通じたことはすぐに他方にも通じます。そして幽界での二人の生活状態は双方の母たちの霊眼に映り、また双方の母たちの口を通じてくわしく伝えられます。ですから、たとえ地上の人間の存在が疑われるようなことがあっても、幽界の子供たちの存在は到底疑うことができないのであります。
 こうした次第で、私も妻もこれを新樹からの通信として発表することには少しの疑問も感じませんが、ただその通信内容の価値については、これをあまりに過大評価されないことをくれぐれも切望してやみません。発信者は幽界のほんの新参者ですし、受信者は心霊通信のほんの未熟者で、到底満足な大通信ができるはずはありません。せいぜいあの世とこの世との通信のひとつの見本とみなしていただければ結構で、真の新樹の通信は、これを今後五年十年の後に期待していただきたいのであります。

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
         潮文社、2010年、pp.4-9 (現代文訳 武本昌三)



 現代文訳者私感

 ここでは浅野和三郎先生が、通信相手が間違いなくご次男の新樹氏であることを確認するために、伊勢神宮への参拝の宿題を出し、その答えを中西女史と多慶子夫人を通じて別々に受け取ることで検証しておられます。さらには、東女史の愛児・相凞さんと新樹氏との親しい交友をお二人の母親同士が霊視して確認しておられることには、通信の初期の段階であるだけに、その霊能力の高さに畏敬の念を抑えることができません。それでいて和三郎先生が、「満足な大通信ができるはずはありません」と謙遜しておられるのには頭が下がります。

 和三郎先生のご長女で、新樹氏の妹さんであられる秋山美智子様がご健在で、いま横浜市に住んでおられます。昨年1月にお会いして以来、文通が続いていますが、私の『天国からの手紙』なども読んでくださいました。その美智子様が、「兄と潔典さんが会ってくれればいいですね」と言ってくださったことをたいへん有り難く思い出しています。それは夢のような話かもしれませんが、霊界では案外簡単に実現しているのではないかと思ったりもしています。しかし、いまの私には、それを確かめるすべはありません。
(2013.08.16)

    ― 以上、1~4 を挿入して、次回は 8 へ移ります ―  




  5.(三)通信の初期

 すでに申上げたとおり、新樹が彼の母を通じてともかくも通信を開始したのは、昭和4年7月の半ば頃でしたが、通信とはほんの名ばかりで、わずかに簡単な数語をとぎれとぎれに受け取るだけに過ぎませんでした。
 当時の私の手帳から、見本として少しばかり抜き出してみます――

 問「お前はいま何か着物を着ているか?」
 答「着ています………白い着物………」
 問「飲食はしているか?」
 答「何も食べていません・・・・・・」
 問「睡眠は?」
 答「睡眠もとっていません・・・・・」
 問「月日の観念はあるか?」
 答「ありません、ちっとも・・・・・・」

 これが7月17日の問答筆記で、その末尾につぎのような私の注釈がついています。

 「この日の通信の模様はよほど楽になった。私が『昨年の今日は、お前と一緒に大連郊外の老虎灘へ出掛けて行き、夜まで楽しく遊び暮らした日だ』と言うと、彼は当時を追憶していたようで、しきりに涙を流した………」

 7月25日の第8回目の通信の記録を見ると、そこではいくらかの進境がみられます。左にその全部を掲げてみます。

 問「私たちがここにこうして座り、精神統一をしてお前をよぼうとしている時には、それがどんな具合にお前のほうに通じるのか? 一つお前の実感を聞かせてくれないか・・・・・」
 答「ちょっと、何かその、ふるえるように感じます。こまかい波のようなものが、プルプルプルと伝わってきて、それが僕のほうに感じるのです。」
 問「私の述べる言葉がお前に聞えるのとは違うのか?」
 答「言葉が聞えるのとは違います……感じるのです……。もつとも、お父さんのほうで、はっきり言葉に出してくださったほうが、よくこちらに感じます。僕はまだ慣れないから……」
 問「私に限らず.誰かが心に思えば.それがお前のほうに感じられるのか?」
 答「感じます………いつも波みたいに響いてきます。それは眼に見えるとか、耳に聞えるとかいったような、人間の五感の働きとは違って、何もかもみな一緒に伝わってくるのです。現に、お母さんはしょっちゅう僕のことを想い出してくださるので、お母さんの姿も、気持ちも、一切が僕に感じてきてしようがない・・・・・・」
 問「生前の記憶はそっくりそのまま残っているか?」
 答「記憶しているのもあれば、また忘れたようになっているのもなかなか多いです。必要のないことは、ちょうど雲がかかつたように、奥のほうに埋もれてしまっていますよ………」
 問「満鉄病院へ入院してからのことを少しは覚えているか?」
 答「入院中のこと、それからどうして死んだかというようなことは全然覚えていません。火葬や告別式などもさっぱりわかりませんでした・・・・・・」
 問「お前が臨終後まもなく、火の玉がお前のお母さんに見えたが、あれはいったい誰が行ったのか?」
 答「僕自身は何も知りません………。いま守護霊さんに伺ったら、全部守護霊さんがやってくださったのだそうです………」
 問「いつお前は自分の死を自覚したのか?」
 答「叔父さんに呼び起こされた時です………」
 問「あのまま放置しておいてもいつか気がついていただろうか?」
 答「さあ………(しばらく過ぎて)只今守護霊さんに聞いたら、それは本人の信仰次第で、真の信仰のある者は早く覚めるそうです。信仰のないものは容易に覚めるものではないといわれます。」

 これが当日の問答の全部です。例によって、その末尾には私の注釈がつぎのようについています。――

 「右の問答後、妻に訊くと、先ほど細かい波の話が出た時に、彼女の霊眼には、非常に繊細な、きれいな漣がはっきり見えたという。これがいわゆる思想の波、エーテル波動とでもいうものか?」

 初期の通信の見本の紹介はこの辺で打ち切り、これからは多少分類的に手帳からの抄録を行って、少しでも死後の世界の実相を知りたいと思っておられる方々の資料に供したいと存じます。

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.9-12  (現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者 私感

 まず何よりも、昭和4年
(1929年)の通信の初期に、すでにこれだけの対話が実現していたことに驚かされます。心霊研究者としての浅野和三郎先生、優れた霊能者であられた多慶子夫人、それに大連の赴任地で25歳で急死された次男の新樹氏の3人の強い家族愛が高度の霊的才能と結びついて為し得た稀有の結果といえるでしょう。昭和4年7月17日の和三郎先生の注釈で、「私が『昨年の今日は、お前と一緒に大連郊外の老虎灘へ出掛けて行き、夜まで楽しく遊び暮らした日だ』と言うと、彼は当時を追憶していたようで、しきりに涙を流した………」とあるのには、私は何度読んでも、涙を禁じ得ません。

 霊界にいる人を念じながら対話を試みる時、こちらのことばはどのようにして霊界の相手に通じるのか、私も長い間、霊界通信に関わっていながら、自分自身の切実な問題として深い関心を持ち続けてきました。極めて貴重なこのような情報についても、ここでは霊界から、新樹氏が自分の例を明快に述べておられます。読者の一人としても、ただ、「有難うございます」とこころからのお礼を申し上げるほかはありません。
(2013.07.05)




  6.(四)幽界人の姿その他 その1)

 幽界の居住者と交信をする場合に、誰でも先ず聞きたがるのは、彼等の生活状態、例えばその姿やら衣食住に関する事柄でありましょう。私の質問も決して例外ではありませんでした。
 手帳を開いてみると、私が初めて亡き新樹に向かって、彼の幽界での姿について質問をしたのは7月26日、第9回目の招霊を行った時でした。

 問「いまお前は以前の通り、自分の体があるように感ずるか?」

 すると新樹は、考え考え、次のように答えました。――

 答「自分というものがあるようには感じますが、しかし地上に居た時のように、手だの、足だのがあるようには感じません………。といっても、ただ何もないのではない。何かがあるようには感じます。そして造ろうと思えばいつでも自分の姿を造れます………。」

 この答えはひとかたならず私を考えさせました。それまで欧米に知られていた幽界通信によれば、彼岸の居住者の全部は、生前そっくりの姿、或いはそれをやや理想化し、美化したような姿を固定的に持っているように書いてあります。これは霊魂問題に深く思いを寄せている者が長年疑問に感じてきた点で、これが果たして事実のすべてであろうか、という疑いが常に胸の奥の奥にあったのであります。しかし、多くの幽界通信の所説を無下に排斥することもまた乱暴な仕業でありますので、やむなく、しばらくこれに関して最後の結論を下すことを避けていたわけですが、今この新樹の通信に接し、私は何やら一筋の光明に接したような気がしたのでした。

 「これは面白い」と私は独語しました。「幽界居住者の姿はたしかに造りつけのものではないらしい。それにはたしかに動と静、仮相と実相との両面があるらしい………。」

 殆どこれと前後して、私は、スコット女史の体を通じて現はれた『ステッドの通信』を読みましたが、その中にほぼ同様の意味のことが書いてあったので、ますますこの問題に興味を覚え、この日の質問をきっかけに幾度かこれに関して新樹と問答を重ねました。新樹もまた興味が湧いてきたとみえ、自分の力量の及ぶ限り、また自分でわからない時には母の守護霊その他の援助を借りて、かなり具体的な説明を試みました。8月31日の朝、私と新樹との間で行われた問答はその見本の一つであります。

 問「幽界人の姿に動と静の二通りあるとして、それならその静的状態の時には全く姿はないのか? それとも何等かの形態をもっているのか?」
 答「それはもっていますよ。僕たちのふだんの姿は紫っぽい、軽そうな、ふわふわした毬みたいなものです。あまり厚みはありませんが、しかし薄っぺらでもない………。」
 問「その紫っぽい色は、すべての幽体に共通する色なのか?」
 答「みな紫っぽい色がついていますよ。しかし浄化するにつれて、その色がだんだん薄色になるらしく、現にお母さんの守護霊さんの姿などを見てみると、殆んど白いです。ちょっと紫っぽい痕跡があるといえばありますが、もう九分通り白いです……。」
 問「その毯みたいな姿が、観念の動き方一つで生前そつくりの姿に早変わりするというのだね。妙だな………。」
 答「まあ、ちょっと譬えていうと、速成の植物の種子のようなものでしょう。その種子からぱっと完全な姿が出来上るのです………。」
 問「その幽体も、肉体同様、やがて放棄される時が来るのだろうか?」
 答「守護霊さんに聞いたら、上の界へ進む時はそれを棄てるのだそうです。――しかし、必要があれば、その後でも幽体を造ることは造作もないそうで………。」
 問「幽界以上の界の居住者の形態はわからないだろうか?」
 答「わからんこともないでしょう。僕には沢山、指導者だの顧問だのがついていて、なんでも教えてもらえますから……。お父さんは一段上の界を霊界と呼んでおられるようですが、只今僕の守護霊さんに訊いてみましたら、霊界の居住者の姿も大体幽界のそれと同じで、ただその色が白く光った湯気の塊りみたいだといいます。――こんなことをただ言葉で説明してもよくお判りになれないでしょうから、お母さんの霊眼に一つ幽体と霊体との実物をお目にかけましょうか?」

 私が、是非そうしてくれと頼むと、まもなく彼の母の閉じた眼底に、極めてくっきりと両方の姿が映し出されたのでした。後で透一から覚めて物語るところによると、どちらもその形状は毬またはクラゲのようで、ただ幽体には紫がかった薄色がついており、そしてどちらも生気躍動といったふうに、全体にこまかい、迅い、振動が満ち満ちていたといいます。

  浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.13-16 (現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 死んで霊界へ行ったときには私たちはどのような姿になるのか。ここでは、新樹氏の幽界の段階での姿が明確に述べられていて、実に興味深い内容になっています。いろいろと本などに書かれてはいても、幽界での姿などというのはやはり理解が容易ではありませんでした。それが、新樹氏が自分の姿を中心に具体的に述べておられるだけに、そのことばには極めて説得力があるといわなければなりません。

 新樹氏が「僕には沢山、指導者だの顧問だのがついていて、なんでも教えてもらえますから」と言っておられるのには、私たちも元気づけられます。死んだあとはまず幽界へ行き、やがて霊界へ移っていくわけですが、その幽体と霊体との違いを、多慶子夫人の霊眼に写して見せているのも、通常では想像すらできない驚嘆すべき状況と思われます。
(2013.07.12)



  7. (四)幽界人の姿その他 (その2)

 この種の問答はまだ数多くありますが、いたずらに重複することを避け、ただ比較的まとまりのよい、第46回目(昭和4年12月29日午後)の問答ですべてを代表させることにいたします。
 この日は昭和4年度の最終の招霊になると思いましたので、多少の操返しを厭わず、お浚いのようなものにしたのでした。――

 問「多少前にも尋ねたことがあるのが混じるだろうが、念のためにもう一度質問に答えてもらいたい。――お前が叔父さんに呼ばれて初めて死を自覚した時には自分の体のことを考えてみたか?」
 答「そうですね・・・・・。あの時、僕は真っ先に自分の体はと思ったようです。するとその瞬間に体ができたように感じました。触ってみてもやはり生前そっくりの体で、特にその感じが生前と違うようなことはありませんでした。要するに、自分の体だと思えばいつでも体ができます。若い時の姿になろうと思えば、自由にその姿にもなれます。しかし僕にはどうしても老人の姿にはなれません。自分が死んだ時の姿までにしかなれないのです。」
 問「その姿はいつまでも持続しているものかな?」
 答「自分が持続させようと考えている間は持続します。要するに持続するかしないかはこちらの意思次第のようです。また、僕が絵を描こうとしたり、水泳でもしようとしたりすると、その瞬間に体ができ上がります。つまり外部に向かって働きかけるような時には体ができるもののように思われます。――現に、いま僕がこうしてお父さんと通信している時には、ちゃんと姿ができています・・・・・・。」
 問「最初はお前が裸体の姿の時もあったようだが・・・・・・。」
 答「ありました。ごく最初に気がついた時には裸体のように感じました。これは裸体だな、と思っていると、そのつぎの瞬間にはもう白衣を着ていました。僕は白衣なんかいやですから、その後は一度も着ません。くつろいだ時には普通の和服、訪問でもする時には洋服――これが僕の近頃の服装です。」
 問「お前の住んでいる家は?」
 答「なんでも最初、衣服の次ぎに僕が考えたのは家のことでしたよ。元来僕は洋館の方が好きですから、こちらでも洋館であってくれればいいと思いました。するとその瞬間に自分白身のいる部屋が洋風のものであることに気づきました。今でも家のことを思えば、いつも同じ洋風の建物が現われます。僕は建築にはあまり趣味はもっていませんから。もちろん立派な洋館ではありません。ちょうど僕の趣味生活にふさわしい、バラック建ての、極めてあっさりしたものです。」
 問「どんな内容か、もう少し詳しく説明してくれないか?」
 答「東京あたりの郊外などによく見受けるような平屋建てで、部屋は三室ほどに仕切ってあります。書斎を一番大きくとり、僕はいつもそこにいます。他の部屋はあってもなくてもかまわない。ほんのつけたしです。」
 問「家具類は?」
 答「ストーブも、ベッドも、また台所用具のようなものも一つもありません。人間の住宅と違って至極あっさりしたものです。僕の書斎には、自分の使用するテーブルと椅子が一脚ずつ置かれているだけです。書棚ですか……そんなものはありませんよ。こんな書物を読みたいと思えば、その書物はいつでもちゃんと備わります。絵の道具なども平生から準備しておくというようなことは全然ありません。」
 問「お前の描いた絵などは?」
 答「僕がこちらへ来て描いた絵の中で、傑作と思った一枚だけが保存され、現に僕の部屋に懸けてあります。装飾品はただそれきりです。花なども、花が欲しいと思うと、花瓶まで添えて、いつのまにか備わります。」
 問「いまこうして通信している時に、お前はどんな衣服を着て居るのか?」
 答「黒っぽい和服を着ています。袴ははいていません。まず気楽に椅子に腰をかけて、お父さんと談話を交えている気持ですね………。」
 問「庭園などもついているのかい?」
 答「ついていますよ。庭は割合に広々ととり、一面の芝生にしてあります。これでも自分のものだと思いますから、敷地の境界を生垣にしてあります。だいたい僕ははでなことが嫌いですから、家屋の外回りなどもねずみ色がかった、地味な色で塗ってあります。」
 問「いや今日は、話が大へん要領を得ているので、お前の生活状態が髣髴としてわかったように思う。――しかし、私との通信を中止すると、お前はいったいどうなるのか?」
 答「通信がすんでしまえば、僕の姿も、家も、庭も、何もかも一時に消えてしまって、いつものふわふわした塊り一つになります。その時は自分が今どこにいるというような観念も消えてしまいます。」
 問「自我意識はどうなるか?」
 答「意識がはっきりしている時もあれば、また眠ったような時もあり、だいたい生前と同じです。しかし、これはおそらく現在の僕の修行が足りないからで、だんだんと覚めて活動している時ばかりになるでしょう。現に、近頃の僕は、最初とは違って、それほど眠ったような時はありません。そのことは自分でもよくわかります。」
 問「お前の家にはまだ一人も来訪者はないのか?」
 答「一人もありませんね・・・・・。幽界へ来ている僕の知人の中にはまだ自覚している者がいないのかもしれませんね………。」
 問「そんなことでは寂しくてしようがあるまい。そのうちひとつ、お前のお母さんの守護霊にでも頼んで訪問してもらおうかな・・・・・・。」
 答「お父さん、そんなことができますか………。」
 問「それはきっとできる………できなければならないはずだ。お前たちの世界は、大体において想念の世界だ。ポカンとしていれば何もできないだろうが、誠心誠意で思念すれば、きっと何でもできるに違いない・・・・・。」
 答「そうでしょうかね。とにかくお父さん、これは宿題にしておいてください。僕はやってみたい気がします・・・・・。」

 この日も彼の母の霊眼には彼の幽界における住宅がまざまざと映りましたが、それは彼の言っているとおり、とてもあっさりした、郊外の文化住宅らしいものだったとのことでした。その見取り図もできていますが、わざわざお見せするほどのものではありませんから、ここでは省略いたします。

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.16-21 (現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 新樹氏が満鉄病院で急逝したのは、昭和4年2月28日の午後6時すぎであったそうです。その新樹氏の霊魂は、早くも3月11日には中西霊媒によって呼び出され、その時に立ち会ったのが和三郎先生の弟で、海軍中将であった浅野正恭氏で、これが新樹氏からの通信の始まりでした。これは復刻版の「(一)通信の初期」に述べられていますが、この部分も割愛し難いので、この現代文訳の途中か最後に、改めて挿入することになるかもしれません。

 ここでは、自分の体のこと、衣服のこと、部屋の様子や家具のこと、それに家や庭のことに至るまで、全く自由で自然な会話の中で、こまかく伝えられていることに驚嘆させられます。生垣に囲まれた割合に広々とした庭がある3室ほどの洋風の家に、黒っぽい和服を着て気楽に椅子に腰掛けている新樹氏の姿は、私たちにも眼に見えるようです。和三郎先生が、「そのうちひとつ、お前のお母さんの守護霊にでも頼んで訪問してもらおうかな」と言っておられますが、その時の新樹氏と同様、私たちも、「本当にそんなこと出来るんですか」とつい、聞いてみたいような気持ちにさせられます。(2013.07.19)




  8. (五)彼岸の修行 (その1)

 新樹はいったい幽界でどんな修行をしているかということは最初から私が聞きたいと思っていたことでした。
 昭和4年7月25日第10回目の招霊の際の記録を開いてみると、私は、彼の幽界における指導者について質問していました。

 問「お前にはやはり生前の守護霊が付いていて、その方に指導してもらっているのか?」
 答「守護霊のことをいうと僕はなんだか悲しくなるから、その話は止めてください・・・・・。現在僕を指導してくださるのは、何れもこちらへ来てから付けられたもので、みんなで五人おります。その中で一番僕がお世話になるのは一人のお爺さんです………。」
 問「その五人の指導者たちの姓名は?」
 答「それぞれに受け持ちがあって、想えばすぐ答えてくださるから名前などは要らないです………。」
 問「その五人の受持は?」
 答「むつかしいなあ、どうも・・・・・・。まだ僕には答えられない。とにかく僕が何かの問題を聞きたいと思えば、五人の中の誰かが出て来て教えてくださる。」
 問「幽界でお前の案内をしてくれる人もいるのか?」
 答「いますよ。案内してくださるのは、お爺さんの次の位の人らしい………。」
 問「現界と交信する時は誰が世話してくれるのか?」
 答「いつもお爺さんです。」
 問「勉強している科目の内容はどんなものか?」
 答「僕は慣れていないので、細かい話はまだできない。よく先のこと……神界のことなどを教えられます。」

 同年8月3日、第15回目の招霊の際には書物のことが話題になっていました。

 問「お前が書物を読んでいる姿が昨日お母さんの霊眼に映ったが、実際にそんなことがあったのか?」
 答「読んでいました。あれは霊界のことを書いてある書物です。僕が書物を読もうと思うと、いつのまにか書物が現われてくるので………。」
 問「その書物の用語は?」
 答「あの時のは英語で書いてありました。ちょっとむつかしいことも書いてあるが、しかし生前、英語の書物を読んだ時の気分とを比較して見ると、現在の方がよほどわかりよい。ぢつと見つめていると自然にわかってきます。」
 問「書物は何冊もよんだか?」
 答「そんなに何冊も読みはしません。ことによると幽界の書物は一冊しかないのかもしれません。こちらで調べようと思うことが、何でも皆それに書いてあるらしく思われますよ。つまり幽界の書物というのは、思想そのものの具象化で、読む人の力量次第で、深くもなればまた浅くもなり、また求める人の注文次第で、甲の問題も乙の問題もその一冊で解決されるといった形です。僕にはどうもそのように感じられます。」
 問「その書物の著者は誰か? またそれに標題がついていたか?」
 答「著者も標題もありませんよ。」
 問「お前が読んだものをこちらへ送信してくれないか。」
 答「お父さん、現在の僕にはまだとてもそんなことはできませんよ。こんな通信の仕方では僕の思っていること、感じていることの十分の一も伝えられはしませんもの………。」
 問「いまお前は書物がいつのまにか現われると言ったが、いったい誰がそんなことをしてくれるのだろう? ただで書物が現われるはずはないと思うが・・・・・・。」
 答「それはそうでしょう。自分一人でしているつもりでも、案外、蔭から神さまたちがお世話をしてくださっておられますからね。書物などもやはり指導者のお爺さんが寄越してくれたのでしょう、――きっとそうです。」

 新樹はまた修行の一端として、ときどき、幽界の諸方面の見学などもしているようですが、その内容をここに書き加えるのは煩雑になりますので差し控えます。
 とにかく、幽界の修行といっても、その向う方面はなかなか複雑なものであるらしく、とても簡単には片づけることはできませんが、しかし幽界の修行の中心は、煎じ詰めれば、それは精神統一の一語に帰し得るようです。

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.22-25 (現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 和三郎先生が、幽界でどんな勉強をしているのかと尋ねていますが、新樹氏は、「僕は慣れていないので、細かい話はまだできない」と答えておられます。こういう質問は難しいのかもしれません。私も何人かの霊能者に同様の質問を潔典にしたことがあります。霊能者たちの反応はそれぞれが的外れではなかったものの、私が予想していた「言語学」という答えはなかなか得られませんでした。幽界や霊界では、学ぶ対象が変わってくるということもありそうです。

 多慶子夫人には、霊視でわが子の本を読んでいる姿が見えるというのは、感嘆させられます。問答では、新樹氏が英語で読んだ本について、その意味はぢつと見つめていると自然にわかってくると答えておられるのは、非常に興味深く感じられます。また、読んでいた本には「著者も表題もなく」、「こちらで調べようと思うことが、何でも皆それに書いてあるらしく思われます」というお答えには、幽界での読書がどんなものか、私たちもその一端を垣間見ることができたことになるのかもしれません。
(2013.08.23)



   9.  (五)彼岸の修行 (その2)

 精神統一・・・・・・・これは現世生活において何より大切な修行で、その人の真価はだいたいこれで決められるようであります。五感の刺激のまにまに、気分の向かうまにまに、あちらの花にあこがれ、こちらの蝶に戯れ、少しもしんみりとして落ちついたところがなかった日には、五十年や七十年の短かい一生は、ただ一場の夢と消え失せてしまいます。人間界の気のきいた仕事で、何か精神統一の結果でないものがあるでしょうか。
 しかし、物質的現世では統一に一心不乱にならなくとも、なんとかその日その日を暮らせます。ところが、一たん肉体を棄てて幽界の住民になりますと、すべての基礎を精神統一の上におかなければ到底収まりがつかぬようです。
 新たに幽界へ来たものが、通例何よりも苦しめられるのは、現世への執着であり、煩悩であり、それが心の闇となって一寸先も判らないようであります。地上の闇ならば、これを照らすべき電燈も、瓦斯燈もありますが、幽界へ来たものの心の闇を照らすべき灯火は一つもありません。心それ自身が明るくなるより外に、幽界生活を楽しく明るくすべき何物もないのであります。
 そこで精神統一の修行が何よも大切になるのであります。一切の雑念や妄想を払いのけ、じっと内面の世界に入り込み、表面にこびりついた汚れと垢とから離脱すべく一心不乱に努力する。それを繰り返し繰り返しやっている中に、だんだんまわりが明るくなり、だんだん幽界生活がしのぎ易いものになる。これよりほかに絶対に幽界で生きる途はないようです。
 昭和5年2月の16日、新樹はそれについて次のように述べています。――

 「僕が最初にこちらで自覚した時に、指導役のお爺さんから真っ先に教えられたのは、精神統一の必要なことでした。それをしなければ、いつまで経っても決して上へは進めないぞ!――そう言われましたので、僕は引き続いてそれに力をつくしています。
 その気持ですか……僕、生きている時には全く精神統一の稽古などをしなかったので、詳しい比較を申し上げることはできませんが、一口にいうと、何も思わない状態です。いくらか眠っているのと似ていますが、ずっと奥の奥の方で自覚しているようなのが少し睡眠とは違いますね。僕なんかは現在、こちらでそうしている時の方がはるかに多いです。
 最初はそうしている際にお父さんから呼ばれると、ちょうど寝ぼけている時に呼ばれたように、びっくりしたものですが、近頃ではもうそんなことはありません。お父さんが僕のことを想ってくだされば、それはすぐこちらに感じます。それだけ幾らか進歩したのでしょうかしら………。
 この間お母さんの守護霊さんに逢った時、あなたもやはり最初は現世のことが思い切れないでお困りでしたか、と訊いてみました。すると守護霊さんもやはりそうだったそうで、そんな場合には、これはいけないと自分で自分を叱りつけ、精神を統一して神さまにお願いするのだと教えてくれました。
 守護霊さんは閑静な山で精神統一の修行を積まれたそうですが、僕はやはり自分の部屋が一番いいです。だんだん稽古したおかげで、近頃僕は執着を払いのけることが少しは上手になりました。若しひょっと雑念が出てくれば、その瞬間一生懸命になって先ず神さんにお願いします。すると忽ち、ぱらっとした良い気分になります。
 またこちらでは精神統一を、ただ執着や煩悩を払うことにのみ使うのではありません。僕たち常に統一の状態で仕事にかかるのです。通信、調査、読書、訪問・・・・・・・なに一つとして統一の産物でないものはありません。統一がよくできるかできないで、僕たちの幽界における相場がきまります………。」 

 以上はやっとの思いで幽界生活に慣れかけた一青年の告白として、幼稚な点が多いのは仕方がありませんが、少しは参考になるような箇所がないでもないように感じられます。

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.25-28 (現代文訳 武本昌三)


  現代文訳者私感

 新樹氏はまだ幽界での生活を新しく始めたばかりですが、この通信からも、精神統一の修行が重要であることがよくわかります。「だんだん稽古したおかげで、近頃僕は執着を払いのけることが少しは上手になりました」と述べておられますが、この世で煩悩や執着に幾重にも囚われてしまっている私たちも、深く考えさせられることばです。日々の生活の中に静寂の時間を持つことを心がけ、瞑想や祈りをもっと取り入れていかなければならないのかもしれません。(2013.08.30)




    10.  (六)母の守護霊を迎える (その1)

 新樹が少し幽界生活に慣れるのを待ち構えて、私はそろそろ彼に向い、訪問・会見、散歩、旅行等の註文をしました。これは一つにはその通信の内容を豊富にしたいためでもありましたが、また、これによってなるべく新樹の幽界における活動力を大きくし、同時に、若くして父母兄妹と死別した新樹の深い心の傷をなるべく早く癒してやりたい親心からでもありました。
 このような方針は今後も恐らく変わることがないでしょう。ここには新樹が彼の住宅に母の守護霊を迎えた時の模様を紹介したいと思います。
 私が初めて来訪者の有無について新樹に質問したのは、昭和4年12月29日のことでした。その時は新樹が母の守護霊の来訪を希望する模様でしたので、早速その旨を守護霊に伝えました。

 問「子供が大へんさびしそうですから、あなたに一つお客様になっていただきたいのですが・・・・・・・。」
 答「そうでございますか。それは大へん面白いと思います。良い思いつきです………。」
 問「ではあなたからちょっとその旨を子供の方に伝えていただけませんか。」
 答「承知致しました。(少時の後)あの子にそう申しましたら大へんに喜びまして、それではお待ちいたしますから、との返答でございました。」

 その日はそれっきりで別れましたが、昭和5年1月元旦、私はこの約束どおり、新樹を呼んで、早速母の守護霊の来訪を求めさせました。地上生活とは異なり、こんな場合には.極めて簡単で、新樹がそう思念すれば、それが直ちに先方に通じ、そして先方は瞬時に訪ねて来るという仕掛けであります。
 それでも新樹は最初ちょっともじもじしながら、――
 「招くことは招きますが、時代が僕とは大変違うから、話がうまく通じるだろうか……。」 
 などと独り言を言っていました。私は多大の興味をもって、その成行きを待ちました。
 それからおよそ十分間ほど沈黙が続きましたが、その間に彼の母の霊眼には新樹の幽界における例の住宅が現われ、そこには新樹が和服姿で椅子に腰かけて居る・・・・すると、彼の母の守護霊が足利時代末期の服装で扉を開けて入って来る――そんな光景が手に取るように現われたのでした。
 その詳しい状況を新樹はつぎのように説明しています。

 僕はお母さんの守護霊さんに待っていていただいて、こちらの会見の模様をお父さんにご報告いたします。(新樹は生前そっくりの語調で、近頃になく快活な面持ちで語りはじめました)
 守護霊さんは、僕の見たところでは、やっと三十位にしか見えません。大へんどうも若いですよ。頭髪は紐で結えて後ろにたれてあります。着物はちょっと元禄らしい、丸味のある袖がついていますが、もっと昔風です。
 帯なども大へん幅が狭い、やっと五、六寸位のものですが、そいつを背後で結んでだらりと左右に垂らしてある。ちょうど時代物の芝居などで見る恰好です。着物の柄は割合に華美です。
 守護霊さんの容貌ですか………、報告係りの資格で、僕、かまわずぶちまけます。細面で、ちょっと綺麗な方です。額には黒い星が二つ描いてありますが、何といいますかね、あれは・・・・・・・そうそう黛(まゆずみ)、その黛というものがくっきり額に描いてあるのだから、僕たちとはよほど時代がかけ離れているわけです。履物ですか………履物は草履です。これは僕の眼にも大して変わったところはありません。
 「これが僕の部屋ですから、どうぞお入りください。」
 僕がそう言いますと、守護霊さんは大へんしとやかな方で、部屋の勝手が違っているので、ちょっと困ったというご様子でしたが、ともかくも中へ入って来られました。僕は委細かまわず自分の椅子を守護霊さんにすすめました。僕も一脚欲しいなあと思うと、いつのまにかもう一脚の椅子が現われました。こんなとこころはこちらの世界のすばらしく便利な点です。

  浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.28-31 (現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感


 「母の守護霊」というのは、多慶子夫人の守護霊である小桜姫のことで、この「小桜姫」については、浅野和三郎先生の『小桜姫物語』(潮文社)に詳しく述べられています。足利時代に相州三浦新井城主の嫡男・荒次郎義光の奥方として世に知られていました。小桜姫が多慶子夫人の守護霊になっているのは、多慶子夫人が小桜姫と関係の深い三浦半島に生まれ、5百年前に小桜姫が親しんだ山河に多慶子夫人も親しんでいたということがあったからかもしれません。

 ここでは、その小桜姫にお願いして、新樹氏の住居を訪問してもらった時の状況が詳しく述べられていますが、その様子が多慶子夫人の霊眼に「手に取るように現われた」というのには驚嘆させられます。新樹氏の説明にしても、地上のどこかから電話で伝えてきているかのような自然さで、現界と幽界を隔てる壁の存在をほとんど感じさせることがありません。余程の条件が揃わないと、これほどまでに自由な通信は望めないのかもしれませんが、それでも、このような通信が事実として行われていたということは、それを知るだけでも、私たちに大きな安らぎを与えてくれます。
(2013.09.06)




   11.  (六)母の守護霊を迎える (その2)

 僕は守護霊さんと向き合って座りましたが、さて何を話してよいやら、なにしろ先方は昔の人で、僕はきまり悪くなってしまったのです。でも仕方がないから僕の方から切り出しました。 
 「時々霊視法やその他いろいろのことを教えていただいて、誠に有難う存じました………。」
 守護霊さんは案外さばけた方で、これをきっかけに僕たちの間に大へん親しい対話が交換されました。もっとも対話といっても、幽界では心に思うことがすぐにお互いに通ずるのですから、その速力は非常に速いのです。討話の内容は大体次のようなものです。――

 守護霊「いつもあなたのことは、別に名前を呼ばなくても、心に思えばすぐに逢えるので、一度もまだ名前を呼んだことがなかったのですが、今日は、はっきりきかせてください。何というお名前です?」
 僕「僕は新樹というものです。」
 守護霊「そうですか、シンジュというのですか。大変にあっさりした良い名前です………。私とあなたとは随分時代が違いますから、私の申すことがよくあなたに判るかどうかしれませんが、まあ一度私の話を聞いてみてください………。あなたはそんな立派な男子になったばかりで若くて亡くなってしまわれて大へんにお気の毒です。あなたのお母さまも、しょっちゅうあなたのことを想ひ出して嘆いてばかりおられます・・・・・・。しかし、これも定まった命数で何とも致し方がありません。近頃はあなたのお母さんも、またあなたも、大分あきらめがついたようで何より結構だと思っています・・・・・・。」
 僕「有難うございます。今後は一層気をつけて愚痴っぽくならないようにしましょう。ついては一つ守護霊さんの経歴をきかせていただけませんか・・・・・・。」
 守護霊「私の経歴なんか、古くもあり、また別に変わった話もないからそんな話は止めましょう。それより、あなたの現在の境涯をきかせてください・・・・・・・。」

 守護霊さんは、ご自分の身上話をするのが厭だとみえまして、僕がいくら訊こうとしてもどうしても話してくれません。仕方がないから、僕は自分が死んでからの大体の状況を話してやりました。そうすると守護霊さんは大へん僕に同情してくれて、幽界における心得といったようなものを聞かせてくれました。――

 守護霊「私の亡くなった時にも、いろいろ現世のことを思い出して、とてもたまらなく感じたものです。でも、死んでしまったのだから仕方がないと思って、一生懸命に神さまにお願いして、それで気が晴れ晴れとなったものです。そんなことを幾度も幾度も繰り返し、だんだん月日が経つうちに現在のような落ち着いた境遇にたどり着きました。あなたもやはりそうでしょう。やはり私のように神さんにお願いして、早く現世の執着を離れて向上しなければいけません・・・・・。」

 僕は守護霊さんの忠告を大へん有難いと思って聞きました。それから守護霊さんは僕がどうして死んだのか、根掘り葉掘り、しつこく訊ねられました。――

 守護霊「そんな若い身で、どうしてこちらへ引取られたのです。くわしく話してください……。」
 僕「僕、ちょっとした病気だったのですが、いつのまにか意識を失って死んだことを知らずにいたのです。そのうち叔父さんだの、お父さんだのから聞かされて、初めて死を自覚したので………。」

 僕は厭だったからわざと詳しい話はせずにきました。それでも守護霊さんはなかなか質問を止めません。――

 守護霊「それでは、あなたは死ぬつもりはなかったのですね?」
 僕「僕、ちっとも死ぬつもりなんかありません。こんな病気なんか、なんでもないと思っていたんです。それがこんなことになってしまったのです………。」
 守護霊「お薬などは飲まなかったのですか?」
 僕「薬ですか、少しは薬も飲みました………。しかし僕、そんな話はしたくありません。僕の執着がきれいに除かれるまで病気の話なんかお聞きにならないでください……。」

 この対話の間にも守護霊さんは気の毒がって、さんざん僕のために泣いてくれました。やはり優しい、良いお方です。お母さんの守護霊さんですから、僕のためにやはりしんみになってお世話をしてくださいます。「なんでもわからないことがあったらこちらに相談してください。私の力の及ぶ限りはどうにもして、お力添えをしてあげます………。」親切にそう言ってくださいました。

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.31-34 (現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 ここでは、足利時代末期の女性と昭和初期の若者との幽界での会見の模様がどういうものか、心理描写を含めて、細かく伝えられています。対話では、心に思っていることがすぐ相手に伝わっていくことはわかっていますが、それが私たちにも、具体的にこのような文字の形で理解できることは、たいへ有難いことに思えます。

 その対話で、新樹氏が「ちっとも死ぬつもりはなかった」のに死んでしまったことを聞いた守護霊さん(小桜姫)が、「さんざん僕のために泣いてくれました」と新樹氏が述べておられるのには、涙を誘われます。守護霊さん自身がそうであったように、初めのうちはどうしても現世のことを思い出したりすることが多いようですが、やがて、そのような「執着」からも離れて、だんだん向上していくことになるのでしょう。
(2013.09.13)




    12.  (六)母の守護霊を迎える (その3)

  二人の間には、ほかにもいろいろと雑談が交わされました。――

 守護霊「家屋の造りが大変違いますね・・・・・・。」
 僕「時代が違うから、家屋の造りだって違います。」
 守護霊「たったお一人でさびしくはありませんか?」
 僕「別段さびしくもありません。僕はいろいろの趣味をもっていますから・・・・・。現にここに懸けてあるのは僕の描いた絵です。」
 守護霊「まあ、この絵をあなたがお描きなすったのですって?こちらへ来てから描いたのですか?」
 僕「そうです。これが一番よく描けたので大切に保存してあるのです………。」
 僕が自慢すると守護霊さんは、じっと僕の絵を見つめていましたよ……・・。

 大体上に記したところが、新樹によって通信された会見の顛末でした。私が直接会見の実況を目撃して書いたのでなく、当事者の一人である新樹からの通信を間接に伝えるのですから、いささか物足りないところもありますが、しかしこれは、こうした仕事の性質上致し方がありません。それで、幾分でもこの不備を補えるように、つぎに彼の母の守護霊との間に行われた問答をあげておくことに致します。これは新樹が退いてからすぐその後で行われたものです。

 問「ただ今子供から通信を受けましたが、あなたが新樹を訪問されたのは今回が最初ですか?」
 答「そうでございます。私はこれまで一度も子供を訪ねたことはございません。」
 問「あなた方も、時々は他所へおでかけになられる場合がおありですか?」
 答「それはございます。修行する場合は他所へ出掛けもいたします。もっとも、たいていの仕事はじっと座ったままで用が足せます・・・・・・。」
 問「今日のご訪問のご感想は?」
 答「ちょっと勝手が違うので奇妙に感じました。第一、家屋の造りが私たちの考えているのとは大変相違していましたので゙・・・・・・」
 問「あなたは先程しきりに子供の名前を訊かれたそうで・・・・・・・。」
 答「私、今までは、あの子の名前を呼びませんでした。私たちには、心でただあの子を思えばすぐ通じますので、名前の必要はないのです。しかし今日は念のためにはっきり聞かせて貰いました。シンジュと申すのですね。昔の人の名前とは違って、あくどくなくて大へん結構だと思いました。」
 問「あなたは、あの子をやはり、ご自分の子のように感じますか?」
 答「さあ………じかに逢わないといくらか感じが薄い気がいたします。けれども、今日初めて訪ねて行って、逢ってみると、大変にどうも立派な子供で………私も心から悲しくなりました。どうしてまあ、こういう子供を神さまがこちらの世界にお引き寄せなさいましたかと、口にこそ出さなかったものの、随分ひどいことだと思いまして、その時には神さまをお怨みいたしました。――私から見ると、子供はまだ執着がすっかり取りきれてはいないようでございます。あの子供は元来陽気らしい性質ですから、口では少しも愚痴を申しはしませんが、しかし、心の中ではやはり時には家のことを思い出しているようでございます。私は子供に、自分の経験したことを物語り、自分も悲しかつたからあなたもやはりそうであらう。しかしこればかりは致し方がないから早くあきらめる工夫をしなければいけないと申しますと、子供も大へん喜びまして、涙をこぼしました。涙の出るのも当分無理はないと思います。自分にちっとも死ぬ気はなかったのですから………。私は別れる時に、もしわからないで困ることがあったら、遠慮せず私に相談をかけるがよい。私の力に及ぶかぎりは教えてあげるからと言っておきました………。」
 問「この次は一つ、あなたのお住居へ子供を招いていただけませんか?」
 答「おやすいことでございます。もっとも住居と申しましても、私の居る所は狭いお宮の中で、他所の方をお招きするのにはあまりふさわしくありません。どこか、あの子の好きそうな所を見つけましょう。心にそう思えば、私たちにはどんな場所でも造れますから・・・・・・・。」

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
      潮文社、2010年、pp.34-38 (現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 
新樹氏が、おそらく日本の昭和初期にみられたような現代風の家に住んでいて、その部屋の中には、「こちらへ来てから描いた」という絵が懸けられているのは興味深く感じられます。私は昨年の春に訪れた、妹の美智子様の家の居間の壁に懸けられていた絵を思い出しました。新樹氏が大連に赴任する前に描かれた絵の一枚です。「僕はいろいろの趣味をもっていますから、別段さびしくもありません」と言っておられるのにも、何か、救われるような気がします。

 新樹氏の家へお母さんの守護霊である子桜姫が訪問して、その様子を新樹氏がお父さんの和三郎先生に報告された後、和三郎先生が、今度は、その同じ訪問の様子を、小桜姫からもすぐ後で聞き出されていることにも、驚ろかされます。このような内容の会話が自由に行われたということが、ちょっと信じられないような気持ちもいたします。「この次は一つ、あなたのお住居へ子供を招いていただけませんか?」と語りかけている和三郎先生のことばが、実は、霊界の守護霊に向けられていることを、優れた霊能者でなければ誰が容易に理解できるでしょうか。
(2013.09.20)



    13. (七)母の守護霊を訪ねる (その1)

 前回の通信を受取ってからまもなく、昭和5年1月4日午前9時頃に、私はまた、新樹を呼びだして訊ねました。――
 「あれからお前はお母さんの守護霊を訪問したか?」
 新樹は大変元気よく答えました。――
 「ええ、早速訪問しました。いつかの約束は実行しました。」
 そう言って彼は、ぽつりぽつりその際の状況を話してくれました。――
 この訪問については、僕は無論前もって指導役のお爺さんの諒解を求めておきました。お爺さんは、それは結構だと言って、大へん喜んでくれました。
 僕は現世にいた時のようにやはり洋服を着てでかけました。もとから僕は他所を訪問する時にはちゃんとした風をして行くのが好きで、その心持はこちらへ来ても少しも変わりません。なに、その時の僕の姿ですか………では早速お母さんの霊眼にお目にかけます………。
 あとで彼の母の物語るところによれば、生前愛用の渋味のある茶色っぽい洋服を着て、細いステッキを携えた新樹の身軽な姿が、鮮明に眼裏に映ったということです。
 新樹の話はなお、次から次へと続きました。――
 さて先方へ着いてみると、むろん守護霊さんはよろこんで僕を迎えてくださいました。
 「まあ、あなたの今日のご様子はすっかりこの間とはちがいますね。」
 そう言って、物珍らしそうに僕の洋服姿に見入っておられました。二十世紀の若い洋服青年と、足利末期の上臈姿の中年の婦人との取り合わせなのですから、実際、よっぽど妙だったにちがいありませんね。あえて時空を超越しているほどではないのですが、よもやこんな芸当ができようとは、僕、生前ちっとも想像しておりませんでした………。
 「私はこんな粗末な、狭い場所に居りますので」と守護霊さんはどこまでも同情深く「さぞあなたは窮屈で面白くないでしょう。どこか他所へお連れしましょう。」
 「いいえ、一度守護霊さんの住んで居られる場所を見せてください」と僕が申しました。「窮屈なくらいちっともかまいません。それが済んでから何所かへ案内していただきましょう………。」
 先日守護霊さんのお言葉にもあった通り、あの方は矢張りお宮に住んで居られるのですね。場所は海岸の非常に閑静な……いや、むしろ閑静を通り越して物寂びしいくらいのところで、尾根は銅葺きの、あまり大きくない、きれいなお宮です。「これが守護霊さんの何百年かに亘る長い長い歳月の間、静かに鎮まっておられるお宮か………」と思うと、僕は何ともいわれぬ厳粛な気分に打たれました。帽子を脱いで扉の内部へ入ってみると、一面に板の間になっていて、奥の正面の個所に神さまがお祀りしてあるばかりで、家具だの什器だのといったようなものは何一つも見当たらない、まことにさっぱりしたものでした。「こんなところで修行三昧にひたつているから守護霊さんは霊能が優れているのだ………」と僕はつくづく感心しました。これというのも皆その人の性格からくるのでしょう。僕なんか、あんな生活はとても御免だ……‥。
 守護霊さんは何のもてなしもできないで困るとおっしゃって、大へんに気を揉まれました。

 守護霊「どこへお連れしましょうね?あなたはどんな場所がお好ですか?」
 僕「場所なんかどこでも少しも構いません。それよりか僕はゆっくり守護霊さんからお話を伺いたいです。」
 守護霊「そうですか。ではこの上のお山はたいへん風景のよいところですから、そこへお連れしましょう。」

 僕達は早速上の山へ行きましたが、あたりは樹木が鬱蒼と生え茂り、一方にちょろちょろした渓流があって、大きな岩がほどよくあしらわれ、いかにも絶勝の地ではありましたが、しかし僕にはそんな場所は何やら寂びし過ぎるように感じました。

 僕「守護霊さん、あなたはここで修行をされたのですか?」
 守護霊「自分はどういうものか、こんなさびしい場所が好きで、修行はたいていここへ来てやりました。あの水辺の大きな岩の陰、あそこが私の一番気に入った所です。」

 守護霊さんは、それが当然だというふうにおっしゃるのですが、どうしてそんな気持ちになれるのか、僕にはむしろ不思議なくらいでした。「なんだってこんな陰気なところで修行されるのだらう………いやだな」――僕は実際そう思いました。しかし好きも嫌いも、皆その人の性質の反映ですから、こればかりは致し方がありませんね。地上の生活でもそうした趣きがありますが、こちらへ来るとそれがいっそう顕著なようで、善悪にかかわらず、めいめい自分の落ち着く場所に落ち着くより外に途がないようです。
 僕達の間には自然に修行についての話も出ました。――

 守護霊「私の修行といったらつまり主に統一をやるのですが、あなたもやっぱりそうでしょう。」
 僕「むろん、そうです。が、僕なんかまだまだだめです。どうも雑念妄想がいつの間にか、むらむらと起こってきて困ってしまいます。これからみっしり努力するつもりですが・・・・・・。」
 守護霊「あなたはどこで修行をなさいます?」
 僕「僕はやはり自分の部屋でやるのが一番気持ちが良いです。僕はこんな陰気な山の中などで坐るのはいやです………。」

 構わないと思って、僕がそう言ってやりますと、守護霊さんは微笑を浮べて「こんなさびしい場所へ連れて来て、ほんとうにお気の毒です」と言われました………。
 精神統一の話に続いて、僕は再び守護霊さんの身の上話を聞こうとしましたが、やはり駄目でした。「大へん年数も経っているので記憶が薄らいでしまった………」そんなことを言われるのです。どうも昔のことを想い出すのが多少苦痛なのでしょうね。お母さんの守護霊さんの経歴は、一つお父さんから直接に訊いてください。ちょっと僕の手には負えません…‥…。
 続いて守護霊さんは相変わらず、僕に向かっていろいろのことを訊かれました。僕が幼少の時のこと、学校時代のこと、それから亡くなる時にはどこに居たかというようなこと……。僕は仕方がないから大体話しておきました。詳しいことは守護霊さんから聞いてください。やはり僕のことを自分の子供のように思うらしく、いろいろ世話を焼いてくれます。僕の方でも、お母さんとは少し違うところもありますが、いくらかそんなような気持ちがして、自然無遠慮な口の利き方もします。「そんなに僕の生前のことをお聞きになりたいなら、いずれゆっくりお話しいたましょう。材料なんか澤山あります・・・・・・。」僕はそう気炎を吐いておきました。
 とにかくお母さんの守護霊は、亡くなってから相当長い歳月を経ていますので、その修行も、われわれとは違って大分出来ている様子に見受けられます。優しい中に、なかなかしっかりしたところのある方です。身体はどちらかといえば痩せぎすで、すんなりしています………。

 新樹の報告はだいたい以上のようなものでした。例によって、それと入れ代りに続いて彼の母の守護霊に出てもらい、新樹との会見の様子を話してもらいました。それはこうです。――

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
      潮文社、2010年、pp.38-43(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 新樹氏自身が「よもやこんな芸当ができようとは」と述懐しておられますが、ここでは、20世紀の洋服姿の若い新樹氏が足利末期の上臈姿で中年の小桜姫の家を訪問しています。その時の新樹氏の「生前愛用の渋味のある茶色っぽい洋服を着て、細いステッキを携えていた身軽な姿」が、多慶子夫人の眼裏には鮮明に映ったというのには、いつものことながらその優れた霊能力に驚嘆させられます。

 多慶子夫人の守護霊である小桜姫の家の様子、山のなかの樹木が鬱蒼と茂っていて渓流が流れており、その水辺の大きな岩の陰が小桜姫の好きな修行の場所であるということなど、を見たり聞いたりしたうえで、新樹氏が、修行をするのに「こんな陰気な山の中などで坐るのはいやです。やはり自分の部屋でやるのが一番気持ちが良いです」などと言っておられるのには、微笑を誘われる読者の方も多いのではないでしょうか。
(2013.09.27)



  14. (七) 母の守護霊訪ねる (その2)

 この間は子供が訪ねて来て大へんに失礼しました。私の住居はあんな粗末なところでございますから、ほんとうにお気の毒に思いました。でも大そうさばけた子供で、是非私の住居を見たいと申しますから、内部へ案内しますと、「大分僕たちとは勝手が違う」と言って、しきりにあたりを見まわしていました………。
 私は別にお宮に住みたいと思ったわけではないのですが、どういうものかお宮ということになってしまいました。こんなことは自分の一存だけではいかないところがあるのです………。
 あの子の服装は、この前会った時とはすっかり変わっているので、びっくりいたしました。あれが只今の時代の服装なのですね。なかなか大きな男でございますね・・・・・・。
 それからあなたもご存じのあの裏の山へ案内して、そこでいろいろと物語りをしました。その時子供は、こんな面白いことを申しました。「この山はたいへんよい景色ではあるが、しかし現界の山とはどこやら気分が違う。達者な時に随分山登りもやったが、この山で感じるような気持にはただの一度もならなかった。ここに立っていると、自然と気がしーんと沈んでしまう………。」そう言ってたいへん感心しているのです。やはり私が修行するように出来ている山なのですから、あんな陽気な気分の子供には寂しくて仕方がないのでございましょうね。とにかく幽界へ来てからは、めいめい自分に適した境涯に落ちつくよりほかにいたし方がないものと思われます。
 それから、私はあの子の幼少の時代からのことをいろいろと訊ねました。あなた方には別に珍らしくも何ともない事柄でございましょうが、私には非常に興味の深い物語でした。かいつまんで筋道だけを申しますと、あの子の申したことは大体こういうようなことでございます。――

 「僕は幼少の時から身体が丈夫で、かなりいたずら坊主でもあった。こんなことをいうと他人が笑うかもしれないが、勉強もよく出来た方で、大へんに父母にも可愛がられた。僕も一生懸命に勉強し、次第に上級の学校に入り、二十二歳の時に長崎の高商を卒業した。守護霊さんとは時代がちがうからおわかりになるまいが、卒業後には直ちに会社というものに入った。しばらくしてから、その会社から遠方へやられ、そこで亡くなった。立派な人になろうと思って大いに気張って働いたものだが、思いもかけない病気のためにこんなことになり、両親にも気の毒でたまらない………。」

 こんな話をしているうちにだんだん悲しそうな様子が見えましたから、これはいけないと気づきまして、私は早速話題を変えました。――

 問「あなたは只今遠い所へやられたと言われましたが、それは何という所ですか?」
 答「大連という所です。」
 問「その大連という所はどんな所です?」
 答「大へんに賑やかな立派な街で、家屋なども内地よりはかえって上等で。」
 問「そこであなたはどんな仕事をしていたのですか?」
 答「むろん会社の仕事をしていました。そこでも大へん皆さんから可愛がられ、僕は非常にそこの勤めが好きでした。また僕はいろいろのことに趣味が多いので、どこへ行っても退屈ということを知りませんでした。中でも僕が好きなのは、音楽と絵画で、大連で描いた絵などもかなり沢山あります………。」

 よい按配にこんな話をしている中に、子供は再び元の快活な状態に戻りました。もともとあの子は陽気な性格なのでございますね。あんな陽気な子が、むざむざと若死したというのは、ほんとうに可愛想だと思います………。
 でも若死したので、それがこちらで奮発する種になるのでございます。「このまま空しく引込んでしまうのはあまりに残念だ。これから懸命に修行して幽明交通の途を開き、大いに父を助けてみ国のために尽くそう………。」口には出しませんが、あの子の思いつめていることはよく私にも感じられます。これから後も、私は努めてあの子と会うことにいたしましょう………。

 この日新樹の母の守護霊が私に物語ったところは、だいたい上のとおりでした。うれしいのは.両者の間に、次第に母子の関係らしい、親しみの情が加わりつつあることで、私としては、そうした傾向を今後一層助長させたく切望している次第であります。

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.43-46 (現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 
多慶子夫人の守護霊である小桜姫がお宮のような住居に住むようになったのは、「自分の一存だけではいかないところがある」と述べているのは興味深く感じられます。新樹氏の場合もそうであるように、霊界では自分の好みの家に住めるはずですが、修行のために「上層部」から指導を受けることもあるのでしょうか。山の雰囲気が現界とはかなり違うことについての新樹氏のことばもたいへん参考になります。

 新樹氏と5百年くらいの「年齢差」のある小桜姫が、「長崎の高商」とか「会社というもの」「大連という所」などについて新樹氏から聞いたことをそのまま正確に伝えていることにも興味をそそられます。このとおりの日本語で、ことばが行き来しているわけではないと思われますが、このような日本語をごく自然に紡ぎだしている多慶子夫人の高度の霊能力には、やはり敬服の念を抑えることができません。
(2013.10.04)



  15. (八) 一 周 忌 前 後 (その1)

 月日の経つのは速いもので、前後五十幾回かの招霊を重ねているうちに、早くも新樹の一周忌の2月28日が近づきました。
 心弱いとお笑いになる方があるかもしれませんが、その日が近づくとともに、私も妻もどうしても新樹の霊を呼び出す勇気が起こりませんでした。
 「とうとうあの子の紀念の日が近づいてしまった。大分あきらめがついたようでも、あの子はやはり在りし日のことを追憶して悲しんでいるだろう………。」
 そう考えるとつい気後れがして、昭和5年2月16日に呼びだしたきり、一時ばったり招霊には遠ざかってしまいました。
 そのうち28日が来ましたので、当日は自宅でほんの内輪の縁者のみを招いて心ばかりの祭事を行い、いささか新樹の生前の面影を偲び合いました。同時に彼の臨終地である大連においても、彼が生前お世話になった古河電機の方々をはじめ、多くの友人達が集まって盛んな追悼祭を営んでくださったと承りました。
 「こんな事はきっとあの子の方に感應しているに違いない………。一つ思い切って呼び出して様子をきいてみようかしら?」
 3月も10日になった時に、私は初めて新樹に逢ってみる気になりました。彼の母もようやくそれに賛同しました。
 「では坐ってみましょうか・・・・・。」
 間もなく彼女の身体は、例の通り新樹の生前の姿態そのままに、少し反り気味になりましたが、心なしか、今日は少しその様子が沈んでいるように見受けられました。やがて語り始めました。――

 「新……新樹です……。しばらくでしたね。」
 「いや大変どうもしばらくだった。少し取り混んでいたものだからゆっくり坐っている暇がなかった。幽界に昼夜の区別がないといっても、時日の長い短いぐらいの観念はあるとみえるね?」
 「それはお父さんありますよ。今度は大分ゆっくりだな、と僕はそう思っていました。」
 「それは大変すまなかった………。近頃お前の方に何か変わったことはなかったかい?」
 「別に大したことありませんでしたが、ただここしばらくは僕の方に非常に強く感じてくることがあって閉口しました。いろいろの人がしきりに僕の事を思ってくれている………それがひしひしと僕の方に感じられるのです。それで、これはきっと僕の命日がめぐってきたのに相違ない。僕が死んでもう一年になるのだ………そう僕は感づきました。そんなことがあると、僕の方でもつい現世の事を想い出して困りました。いけないと知りつつ、つい地上生活が眼に浮かんで………。」
 いつのまにか大粒の涙がぽろりぽろりと彼の母の両頬に伝わるのでした。

 私はなるべく平静な態度で話をすすめました。
 「実は今日は3月10日で、お前の一年祭は10日以上も前に済んだのだ。叔父さんだの、叔母さんだの、ほんの内輪の者ばかり招いて、神主に祝詞をあげてもらったのだが、それがお前の方に通じたとみえる………。」
 「何やら遠くの方で祝詞のようなものを感じました。そしていろんな人がしきりに僕に逢いたがっているのです。そんな時は僕だって矢張り逢いたいのです・・・・・・。」
 「お前の執着が薄らぎさえすれば、それにつれて現世がだんだんはっきり見えてくるのだから、そう悲観したものではないだろう。まあゆっくりやるさ。」
 私は軽く受け流しておきました。新樹の態度にもだんだん落ち着きがみえてきました。
 「僕の家の方もそうですが、その頃大連の方にも大勢集まっているように感じました。いろいろの人達ががやがやと僕の名を呼んだり何かしているのです。あまり細かいことはわかりませんが、何にしろ僕のことをしきりに追憶してくれていることはよく通じました。大連には僕の友達の青柳もいるようでした。青柳はもう帰ってきたのでしょうか?」

 青柳君は満鉄の社員で、かねてよりロンドンに留学していたのですが、2月の末には任地に帰っていたらしいのです。青柳君がパスポートの手違いで、ロシアの官憲に一時抑留された話は、当時の新聞電報にも載っていました。

 「さあ私もよく知らないが」と、私は答えました。「2月28日頃には多分大連へ戻ってきていたのだろう。帰っておれば、お前の追悼会には必らず出席したはずだ。ロンドンでもしきりにお前のうわさをしていたぐらいだから………。」
 「そうでしょうね。僕にはたしかに青柳が居るように感じられたのです。あの男にはお父さんもロンドンで大へんお世話になったそうですね。」
 「いや大へん世話になった。青柳君はロンドンで、新樹君と一緒だと面白いのだがなあ、としきりに言っていたよ。」
 「そうでしたろう。そんな話を聞くと、僕はまた残念だという気がします。いけないことと知りつつ、どうも現世の執着が容易に除き切れないで困ります。」
 「無理もないが、しかし男らしくあきらめが肝腎だ。そんな話はもうこれで止めることにしよう・・・・・・」
 「ではお父さんから、大連の皆さんによろしく言ってあげてください。お祭りをしてもらって、非常にうれしかった、とそう仰ってください。」
 「承知した。」

   浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp.47-51(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 新樹氏が大連で急死してから一周忌を迎えた和三郎先生や多慶子夫人のお気持ちに胸を打たれます。この対話で、現世で家族や大連での同僚たちの新樹氏を想う気持ちが、新樹氏にもこのように伝わっていくということが私たちにも理解できて、有り難いことだと思います。新樹氏は「大連には僕の友達の青柳もいるようでした」と言っておられますから、一周忌の段階で、すでにそこまで感応できていることになるのでしょうか。

 和三郎先生は1928年にロンドンで開かれた第三回国際スピリチュアリスト会議に出席して、「近代日本における神霊主義」の演題で英語で講演をされていますが、その時ロンドンに留学していた満鉄社員の「青柳君」が、和三郎先生の案内役をしてくれていました。そのことを話題にして自由に話し合いをされたあと、「大連の皆さんによろしく」と新樹氏がごく自然に言っておられるのにはやはり驚ろかされます。
(2013.10.11)



  16. (八) 一 周 忌 前 後  (その2)

 私達の対話はそれでちょっと中断しましたが、しばらくして新樹の方から切り出しました。
 「実はね、お父さん」と彼は割合に快活な語調で、「僕はあの時分、あんまりくさくさしたものですから、思い切って散歩に出てみたのです。ついでにその話をしましょうか?」
 「幽界の散歩――それは面白い。話して貰おう。」

 「こちらの散歩は現世の散歩とは大分気分が違います。僕はどこというあてもなく、あちらこちら歩いてみたのですが、いや何ともいえない、のんびりとした感じでした。行ったのは公園みたいな所ですが、少しもせせこましいところがなく、見渡すかぎり広々としていて、そして一面にきれいな花が咲いている。それらの花の中には、生前ただの一度も、見たことのないようなのもありました。その色がいかにも冴えざえしていて、地上の花とはどことなく違うのです。で、幽界の花にもやはり根があるかしら・・・・・・僕はそう思ったので、一本の花を手でいじってみましたが、根はやはり張っているものらしく、なかなか抜けませんでした。」
 「面白いね、どうも………。お前はその花を摘んでみなかったのか?」
 「いや摘んでみました。そしてそれを自分の部屋に持って帰って花瓶に挿し、幽界の花がどう現世の花と違うのかを調べてみたのです。僕たちの世界には昼夜の区別がなく、従って日数を申上げるわけにはまいりませんが、花瓶の花は別に水をやらなくてもいつまでも萎れないのです。ちゃーんと立派に咲き匂っているのです。そこが地上の花とは大いに違う点ですね。どうも僕が花を忘れずにいる間は、花はいつまでも保存されていたように思いますね。そのうちに、僕はいつしか花のことを忘れてしまいました。ふと気がついて見た時には、もう花は消え失せていました。僕にはそれが不思議でなりません。あの花はいったい何所へ行ってしまったのでしょう・・・・・・。」
 「さあ私にもわからんね、幽界の花の行方は………。とにかくそいつは大変面白い研究だった。花を摘む時の具合は地上の花を摘むのと同じだったか?」
 「同じでした。茎がぽつんと切れる具合が、少しも変わりませんでした。」

 「ところで、お前が行ったその広い公園には誰も人が行っていかったか?」
 「最初は誰も見かけませんでした。僕一人で公園全体を占領したようなもので、実にのびのびした良い気持でした。第一、いくら歩いても暑くもなければ、寒くもなく、また少しも疲労を感じないのですからね。そうするうちにふと、僕の歩いている背後から二人連れの男女がやってきました。男は二十二三、女は十七八で、どちらも日本人です。僕が言葉をかけようかと思っているうちに、二人はツーツーと向こうへ行ってしまい、ろくに顔を見る暇もありませんでした。僕は何だか少しあっけなく感じたので、今度誰か来たら話しかけてみようと思いました。幸いにそこに一脚のベンチがあったので、僕はそれに腰をおろして、人の来るのを待ちました。するとしばらくして、十五六の男の子が出てきました。僕は非常にうれしかったものですから、ちょうど生前やったようにその子供に話しかけました。子供の方でも喜びましたが、しかしよほどびっくりしたものとみえ、何とも返事をしないのです。その子は可愛い洋服を着て、半ズボンを穿いていました。しばらく僕の傍に腰をかけているうちに、ようやく話しをするようになりました。いつ幽界へ来たのかと訊いたら、もう随分以前に僕は死んだのです、と言っていました。よほどの家柄の生まれらしく、なかなか品位のある子でした。僕は、ここでまた逢うからそのうちに出てきなさい、と言っておきました。さようなら、と言いも終わらぬうちにその子の姿は消えました。そんなところは非常にあっけなく、なんだかちょっと頼りないのが幽界の生活の実情です。慣れないせいかもしれませんが、僕にはまだまだ地上の生活の方がなつかしいです。現に地上の人たちは僕の一周忌を忘れもせずに、大勢集まって懇ろに追悼会などを催してくれるのですからね………。」

 新樹がまたしめりがちになりそうな様子なので、私は急いで話題を他に転じ、数分間よもやま話を交わしてその日の座を閉じたのでした。

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
     潮文社、2010年、pp. 51-54(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 ここでは、幽界での散歩はどういうものか、幽界の花が地上のものとどう違うかというようなことについて、新樹氏が教えてくれています。散歩の途中で摘んできて花瓶に挿して飾った花が、水をやらなくても萎れることはないことや、その花のことを忘れていると、いつのまにか消えてしまっていたというのは、大変興味深く感じられます。

 公園で逢った15,6歳の品のよい少年とのあっけない別れで、新樹氏が「まだまだ地上の生活の方がなつかしいです」と言っておられるのには同情を禁じ得ません。ここでも、地上でご自分の一周忌に大勢の人が集まってくれたことを思い出しておられますが、このように地上からの思いは、あの世の家族や愛する人に間違いなく伝わっていくことを、私たちもしっかりと確認しておきたいものです。
(2013.10.18)



  17. (九) 再生問題その他  (その1)

 私と新樹の間では、すっかり寛いだ気分で、これという特別の題目を設けずに雑談を交わすこともしばしばあります。それらの中には、もちろん何等とりとめのないのもありますが、また、時として、そのまま葬ってしまうのも惜しいと思われる部分がないでもありません。手帳の中から手当たり次第に抜き出してみましょう。

 問「生前の記憶は死んでもはっきり残っているものか?」
 答「そうですね、生前のことを考えると皆ぞろぞろと眼に浮んできますね。生きていた時よりも却ってはっきりしているようです。当時を思い出して僕は時々うれしい気分にひたることもあります……」
 問「お前の過去の短かい生涯でいつが一番うれしかったか?」
 答「そうですね、僕の思い出の中では、中学卒業後、長崎へ行って居た時代が一番面白かったと感じますね。ここを卒業したらどんな所に行くのかしら……そう思って勉強していました。会社に入ってからは、何やら身が固まったようで、それほどには面白くなくなりました……。」
 問「横須賀時代にはよくお前は海水浴に行ったものだが、そちらで海水浴をやりたくはならないか?」
 答「いや、この間一度行ってきましたよ。ある時僕がふと、海に入りたいな、と思うと、途中の手続きはわかりませんが、とにかく、僕はきれいな海岸に行っていたのです。そこで僕は泳いでみました。その感じですか……。水の中に居るような感じはしますが、別に冷たくもまた温くも感じない。そしていくら泳いでも疲れない。要するに海水浴の気分がするだけで、生前の海水浴とは大分勝手が違うのです。向こうの方で誰だか一人泳いでいたようでしたが、はっきりわかりませんでした・・・・・・・。」
 問「お前はそちらで、親族の誰かに逢つたかな?」
 答「ええ、この間お祖母さんを訪ねてみました。僕がおばあさん、と呼んでみても返事がありません。お祖母さんはまだあんまりはっきりしていないようです。といって、全然無自覚でもなんでもない。静かに眼をつぶって、良い気持ちでうつらうつらしているといった様子なのです……。」
 問「呼んで自覚させる必要はないかしら?」
 答「さあ、おばあさんは別に苦痛がありそうでもなし、またこれを呼び覚ましてどうこうということもないのですから、あのまま安らかに眠らせておいて、自然に眼が覚めるのを待った方がよいかと思いますね……」
 問「お祖父さんにはまだ逢わんかな?」
 答「まだ逢いません。僕これから早速逢ってきます。地上と違って、こんな場合には都合がよいです……。」
 そう言って沈黙がちょっと続きましたが、やがて彼は戻って来て祖父訪問の状況を報告するのでした。「僕行って来ました。お祖父さんは、お祖母さんよりも後で亡くなったのに却って自覚が早いようです。生前のようにきちんと坐って、にこにこしていました。僕が、おじいさん!と呼びかけると、返事はしないが、どうやらわかったようです。よほどはっきりした顔をしていました。――が、おじいさんも通信はまだ無理です。格別お父さんの方で用事がないなら、もうしばらくあのまま楽にさせておかれたらよいでしょう……。」
 問「幽界へ行ったものがどうして自覚が速かつたり、遅かったりするのだろう。お前の一存でなく、指導役の方々に訊いて返答をしてもらえないか?」
 答「おやすい御用です……。――伺ってみるとやはり信念の強いものが早く自覚するそうで、その点において近代日本人の霊魂は甚だ成績が悪いようです。現に僕なども、自分の死んだことも自覚せず、また自分の葬式の営まれたことも知らずにいたくらいですからね……。」
 問「唯物論者――つまり死後の個性存続を信じない連中は死後どうなるのかな?」
 答「非常に自覚が遅いそうです。」
 問「一つこれから自覚していない人たちの実況を見てくれないか?」
 答「承知しました。――今その一部を見せてもらいましたが、いやどうも、なかなか陰惨ですね。男も女もみな裸体で、暗いところにごろごろして、いかにも身体がだるそうです。僕は気持が良くないというよりも、むしろ気の毒の感に打たれ、この連中は一体いつまでこの状態に置かれているのですか、とお爺さん(指導霊の一人)に訊いてみますと、この状態は必ずしも永久に続くものではない。中にはまもなく自覚する者もある。自覚する、しないは本人の心掛け次第で、他からはいかんとも為し難いのだ、という返事でした……」
 問「再生のことを一つ訊いてもらおうか?」
 答「お爺さんに伺って見ると、再生する者と再生しない者と二種類あるそうです。後者はそのままずっと上の界へ進むので、その方が立派な霊魂だそうです。それほど浄化していない者は分霊を出すことによって浄化する。浄化した部分は霊界に残るが、浄化していない分霊は地上に再生する。――ざっとそういった手続きだそうです。赤ん坊でもその全体が再生するということはないそうで……。」
 問「無自覚の霊魂でも、こちらで呼べば霊媒にかかってくるのはどういう理由か?」
 答「それは産土(うぶすな)系統の神さまがお世話をなさるからだそうです。そんな場合にはいつも産土系が世話を焼いてくれます。」
 問「お前が現在行なっているような幽明交通と、いわゆる悪霊の憑依ということの間には、何等か根本的な相違があるのか。一つしっかり調べてくれないか?」
 答「お爺さんに聞いて見ましたが、両者の間に根本的の相違はないようで、悪霊の憑依というのは、要するに有害な観念の波動が、強く相手の身体に感應するだけらしいです。」
 問「前にも幾度も聞いたが、幽界における身体の感じをもう一度聞かせてくれないか?呼吸や脈拍はあるかな?」
 答「そんなものはてんで気がつきませんね。内臓などもあるのか無いのかわかりません……。」
 問「地面を踏む感じは?」
 答「自分の部屋に居る間は、歩くという感じがないでもありませんが、地上の歩行とは大分違います。歩くといっても何やら軽い、柔かい気持です。また足音というものもしません。遠距離に行く時には、一気呵成に行ってしまうので、なおさら歩くという観念が起こりませんね……。」

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
       潮文社、2010年、pp. 54-59(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 あの世へ行っても、生前の記憶や思い出は「却ってはっきり」残っているようで、新樹氏は、長崎高商の学生の頃が「一番面白かった」と追憶しています。ふと海に入りたいなと思うと、もうきれいな海岸に来ている。泳いでみると海水浴の気分にはなるが、いくら泳いでも疲れないというようなことなども、私たちが聞き知ってきた霊界生活の一部を新樹氏が実践して示してくれているようです。

 死後も生命は生き続けることを信じない人は多くいますが、そういう人たちがあの世へ行ったらどうなるか。和三郎先生に言われてその実情を見てきた新樹氏が「陰惨」と報告しているのには納得させられます。「自覚する、しないは本人の心掛け次第で、他からはいかんとも為し難い」という守護霊のことばがありますが、これは、この世に生きている人々についてもいえることかもしれません。
(2013.10.25)




  18. (九) 再生問題その他 (その2)

 問「幼少で死んだものが幽界でどんな生活をしているか、ひとつその実況を見てきてくれないか?」
 答「承知しました。ひとつお爺さんに頼んでみましょう。――(5, 6分の後)只今見せてもらいました。赤ん坊でも、小さいながら、われわれと同様、修行させられて、心も姿も発達するのですね。地上の子供のように迅速ではありませんが、矢張り、あのような具合に大きくなるのですね。僕の行った所では、50歳位の婦人たちが2, 3人居て、その人たちが子供たちの世話をしていました。子供の人数ですか――人数は5, 6人で、3歳から4, 5歳位の男の子と女の子が一緒にいました。抱かれたり、何かしている様子は現世と少しも変わりません。場所はあっさりした家の内部ですが、どうもこちらの家屋は、どれもみな軽そうに見えます。ずっしりとした重そうな趣がなく、何やら芝居の道具のような感じがしますね。僕はお爺さんに向かって、この子供たちが学校へ行く年齢になればどうなるのか、と尋ねてみましたら、お爺さんは早速僕を学校のような場所へ連れて行って見学させてくれました。一学級の生徒は20人位で、やはりここでも男女共学の教育をしていました……。」
 問「他にもクラスがいくつもあるのだね?」
 答「いろいろのクラスに分れています。何を標準として学級を分けるのかというと、それは受持の教師のする事で、主として子供が死ぬ時に、因縁によって導いてくれた神とか仏とかに相談して、充分に調査の上で実行するらしいのです。もっとも宗教的区別などはある程度までの話で、上の方に進めばそんな区別は全く消滅するそうです。」
 問「科目はどんなふうに分れているか?」
 答「現世とは大分違いますね。算術などは全く不必要で、その他、地理も歴史もありません。幽界で一ばん重きをおくのは矢張り精神統一で、これをやると何でもわかってくるのです。音楽だの文芸といったようなものも、子供の天分次第でわけなく進歩するようです。学問というよりもむしろ趣味になるでしょう。趣味があればいくらでも進歩しますが、趣味がなければまるきり駄目です。ですから子供たちは一室に集まっていながら、彼らが学んでいる科目はそれぞれに違います。」
 問「生徒たちの服装は?」
 答「皆まちまちで一定していません。帽子などもかぶっていませんでした。」
 問「書物だの、黒板だのもあるか?」
 答「皆ひと通り揃っています。子供が質問すれば教師はそれに応じて話をするらしく見えます。」
 問「教師はどんな人物だったか?」
 答「30歳前後の若い男でした。お爺さんに聞いてみると、この人は生前に子供を持たなかった人だそうです。つまり生前に子供の世話をしなかった埋合わせに、幽界で教員をやりたいう当人の希望が、神界から聴き届けられたわけなんだそうです。で、僕なんかもその部類に属しはしませんか、と試みにお爺さんに聞いてみたら、お爺さんはただ、そうだなあ、と言っていました……。」
 問「話しは少し後戻りするが、赤ん坊が死んだ時にはどういう具合でいるものなのか、ひとつ世話役の婦人にでも聞いて貰えまいか?」
 答「承知しました。――女の人はこう答えています。赤ん坊は少しも浮世の波にもまれず、従って何等の罪も作らずに現世を去ったのであるから、神さまのほうでも、ごく穏やかに幽界に引き取ってくださる。つまり現界から幽界への移りかわりがなだらかで、そこに死の苦痛も悲みもなく、殆んど境遇の変化を知らずに、すらすらと生長を続けるのだという話です。長く地上に生きておれば、自分ではその気がなくても、知らずしらずに罪をつくりますが、赤ん坊にはそれがありません。赤ん坊が楽なのは当然だと僕も思いますね。へたに中年で死ぬより赤ん坊で死んだほうが幸福かも知れない……。」
 問「赤ん坊は乳を飲みたがりはしないか?」
 答「最初は保母が乳房をふくませるそうです。もつとも、乳が出るわけではなく、また乳を飲む必要もない生活なので、子供のほうでもだんだんその欲望がなくなってくるそうです……」
 問「幽界の子供の発育が遅いのは何故だらう?」
 答「子供の発達には矢張り現世の生活の方が適当なのでしょうね。幽界でも生長することはしますが、現世にくらべるとずっと遅いということです……。」

    浅野和三郎『新樹の通信』〔本文復刻版〕
       潮文社、2010年、pp. 59-62(現代文訳 武本昌三)


 現代文訳者私感

 ここでは、一学級20人くらいの、あの世の学校のことを、いろいろと新樹氏が伝えてくれています。男女共学のクラス分けは受け持ちの教員が行っていて、書物や黒板なども一応揃っているようですが、教科についてはやはり現世とは大分違っていて、ここでも精神統一の訓練の重要性が述べられています。30歳前後の若い男性が教師を志望して神界から聞き届けられた、というのもたいへん興味深く思われます。

 ここで使われている「幽界」ということばは、「あの世」の漢語的表現で、現在ではあの世は一般に「霊界」といわれていると思います。和三郎先生も、界層的には、この世の「現界」に一番近いのが「幽界」で、それから「霊界」になり、その上が「神界」というように分けておられますが、コナン・ドイルは、この三つの界層をさらにそれぞれ三つに細分化してそのイラストを霊界から送ってきたことがあります。
[The Return of Arthur Conan Doyle] (2013.11.01)



  19. 新樹の通信 ―第2編

    目 次

  新樹とその守護霊
  乃木さんと語る
    (1)  彼岸の調査
    (2)  新樹の訪問
    (3)  新樹を中継として
    (4)  一問一答
    (5)  お宮とお墓
    (6)  日本国民に告ぐ
  幽界居住者の伊勢神宮
    (1)  最初の参拝
    (2)  再度の参拝
    (3)  乃木さんと同行
  或る日の竜宮


 現代文訳者(注)

 『新樹の通信』は第1篇、第2編、第3篇の構成になっています。第2編の本文は20から始まります。